2025.06.30

高田馬場 西武新宿線擁壁下 不法占有建築物のうつりかわり

 2025年6月、高田馬場の西武新宿線の擁壁にへばりつくように建てられた不法占有建物の解体が着手された(高田馬場経済新聞「西武鉄道が高田馬場駅前で不法占有建物解体工事 戦後からの風景に終止符」)。

 土地所有者の西武鉄道は「詳細は分かりかねるが、戦時中、戦後の混乱期に建物が建てられた状態となった」と説明しているということだが、その分かりかねる部分を、過去の資料を掘り起こすことで少しでも明らかすることができないか、というのが今回の趣旨だ。

 戦前に建物はなかったのか。本当に戦後増えたのか。戦後から現在までその数に変化はあったのかを、過去の住宅地図や火災保険特殊地図で調べた。できれば当時の写真があればよかったのだが、今のところこの場所が写った過去の写真は見つけることができなかった。

 なおこの場所には別にとりあげた西武新宿線の下に清水川を通したトンネル「戸塚暗渠」もあるので多少そちらと内容がかぶるところがあるがご容赦いただきたい。

 

いきなり結論

 以下収集した資料を並べて解説していくが、細かい事実関係に興味がない方のために結論だけ先に述べよう。


  • 戦前も今の場所に何かしらの小屋が並んでいた。
  • 戦後神田川まで建物の列が延びた。
  • 1970年頃公園整備に伴い神田川寄りの建物半分は消滅、早稲田通り寄りの半分は残った。
  • 以後建物の配置は大きく変わっていない。

年代別に地図を示しながら解説していく。

 

1938(昭和13)年

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 1938(昭和13)年の火災保険特殊地図である。西武新宿線(当時は村山線)が仮設の高田馬場駅から図にある区間を通って現高田馬場駅まで延長したのが1928(昭和3)年なので、西武新宿線の擁壁建設後10年の姿である。
 戦後の混乱期に建てられたと言われている現在の建物の場所にはすでに建物が建っており、「小ヤ(小屋)」と表記されている(黄色着色部分)。これらが土地の所有者である西武鉄道が建てたものか、すでに不法占有によって建てられていたものかは不明。
 なお前面の道は現在と違い西武新宿線沿いにまっすぐ伸び「神高橋」に続いている。
 小屋の端にはトンネルの表記があり、現在閉鎖されている戸塚暗渠が当時通路として機能していたことがうかがえる

 

1954(昭和29)年

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 戦後9年めの状況である。擁壁下の建物は延び、神高橋まで続いている(黄色着色部分)。
 建物の表記を神田川沿いから並べると「山田」「竹田染物」「のみや」「相原」「高橋」「守山」「武山三郎」「島村」「土地」「伊藤」「のみや」「ふくや のみや」「バー トロンバン」「はな」「すし」である。
 最も神田川沿い寄りには水利をいかした染物屋があり、神田川寄り北半分は個人名が多く、1938年に「小屋」だった早稲田通り寄り南半分は「のみや」で一括表記されている。
 早稲田通りに面した南端には「すし」の表記があり、これが現在まで続いている「幸寿司」の可能性もある(青色着彩部分)。

 

1969(昭和44)年

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 早稲田通り寄り南半分にも各店舗名が表記されている。「モガミ」「幸寿司」は今回解体となる前まで営業が続いていた(青色着彩部分)。

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■最後まで続いていたモガミ(左側のトンネルは戸塚暗渠)

 なおこの一帯の風景が「警視庁物語 遺留品なし」に登場している。公開年は1959年とこの地図より10年ほど前になるが、地図上の店名とよく対応している。

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 長田刑事(堀雄二)、渡辺刑事(須藤健)の二人が、タクシーが容疑者をおろしたダンス教室に向かうシーン。刑事を乗せたタクシーは早稲田通りをやってきてこの道へ入っていく。角に「幸寿司」がみえる。これに続くダンス教室のシーンはもう一本先の道で撮影している。

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 林刑事(花澤徳衛)、高津刑事(佐原広二)が結婚相談所を訪れるシーン。結婚相談所の背後に「戸塚歯科」「海の誉」「バー ゴールド」がみえる。それに続くシーンでは神高橋の上で会話する二人の背後に神田川、西武新宿線、山手線が見えている。

1973(昭和48)年

1973
 神田川寄り北半分の建物がなくなる。神田川沿いには現在も規模を縮小して残る高田馬場駅前公園ができる。それに伴い前面道路は神高橋に直結しなくなる(緑色着色部分)。

 

1985(昭和60)年

1985
 大きな変化なし。しかし駅前でもないのになぜ高田馬場駅前公園と名づけたか。

 

1998(平成10)年

1998
 大きな変化なし。「モガミ」が個人名になっているが一時期別の店舗になっていたのかどうかは不明。

 

2005(平成17)年

2005
 大きな変化なし。「モガミ」の店名が消えているが一時期別の店舗になっていたのかどうかは不明。

 

2015(平成27)年

2015
 2009年駅前公園の一部に戸塚特別出張所が完成したことにより、高田馬場駅前公園は大幅に縮小、一層駅前の名にそぐわない状態になった。「もがみ」が復活。

 

2024(令和6)年

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 解体に向けた退去がすすみ店名がほとんどなくなっている。

 

2025(令和7)年6月15日

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 解体工事は2026年2月まで。それによって現在建物に半分隠されている戸塚暗渠があらわになり、多くの人の目にとまるようになるだろう。戸塚暗渠がどのような扱いになるか注目したい。【吉】

2025.06.14

映像の中にみる王子スラム

 「王子バラック」で紹介したいわゆる王子スラムだが、先日60年代のテレビドラマ「特別機動捜査隊」の中にこの場所でロケをしている回を発見したので映像資料として紹介したい。
 「特別機動捜査隊」はNETテレビ(現テレビ朝日)で1961年から1977年まで続いた長寿のテレビドラマだが、今回紹介するのは1965年に放映された第193話「罪と罰」。容疑者の家が王子スラム内にあるという設定で2度ほど特捜隊がここを訪れる。

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■王子スラムの概念図

 今回登場する一帯を地図と記憶をもとに概念図にした。位置関係だけを表しているので距離やサイズは正確ではない。
 王子スラムはその西端を台地上の区道に接していた。そこから東に向かい台地に細い帯状の谷を削りながら低地にまで降りていた。帯状の谷底の両側には木造トタン屋根の粗末な家屋が並び、中央に通路があった。途中都道455号線がこの谷をわたる南橋があり、谷の北側には当時の十条台小学校があった。
 低地にでると細長い土手となって東に伸び、京浜東北線などの鉄道敷の前で一旦途切れるが、その反対側からまた土手が伸び、土手は次第に低くなりながら当時の王子中学校付近まで伸び、一般の区道に溶け込んでいた。鉄道敷の手前には区道が土手をくぐるトンネルがあった。

では特別機動捜査隊のシーンを「谷部」「土手部」にわけて紹介していこう。

【谷部】
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1 南橋からみた谷部1
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2 南橋からみた谷部2
 南橋から谷部を見下ろすシーン。細い道の両側に木造トタン屋根のバラックが建ち並んでいる。
 「王子バラック」で紹介したように、この一帯には終戦直後に都によって石神井川沿いから移住させられた在日韓国朝鮮人たちが多く住んでいたという。画像1の屋根の上には「在日朝鮮人祖国往来実現達成 一層の御支援を願います」とある。在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業は1959年から始まったが、日本と北朝鮮を自由に往来することはできなかったという。当時「祖国往来」を実現するための運動が盛んであり、この看板もロケのために据え付けたものではないだろう(この辺の事情に詳しくないので間違いがあったらすみません)。

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3 南橋からみた谷部3
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4 南橋からみた谷部4
 谷部の全景。前方で谷が開けて低地の方が見えている。

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5 南橋から谷部の全景(1〜4をつなげたもの)
 1〜4の画像をつなげると、規模感を含め当時の南橋からの雰囲気がより伝わるものになった。

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6 南橋から谷部へ降りる道1
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7 南橋から谷部へ降りる道2
 記憶にはないが、南橋の横から谷部へ降りられる道があったようだ。画像5は上から、画像6は下からのショット。

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8 谷部の中央をはしる道1
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9 谷部の中央をはしる道2
 バラックが建ち並び、道幅2m未満の未舗装の一本道が続く。

【土手部】
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10 谷部から土手の下へ1
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11 谷部から土手の下へ2
 谷部を抜け、土手の下にある容疑者の家へ向かう刑事。
 画像10は下から、画像11は上からのショット。画像10の背景に見える建物は台地上にある当時の十条台小学校。

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12 土手下を流れる水路
 土手下の家の裏を水路が流れていたようだ。家の裏側に回らなかったためか。記憶には残っていない。

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13 バラック外観
 容疑者の家。外壁は板を打ちつけただけで、屋根はトタン葺きのようだ。
左上方に土手の上を歩く人物が写っているので家が土手下にあることがわかる。
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14 バラック内部
 容疑者の家。板がむきだしの内装。天井板はなく屋根は板を打ちつけトタンを葺いただけのものか。電気は通っている。前後のシーンがなめらかにつながっているし、室内だけ別の場所で撮る意味もないので現地の家屋を使っているものと思われる。

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15 土手部1
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16 土手部2
 土手部。周囲の家と比べると土地が高くなっているのがわかる。たくさん物干し台が立っている。数は少ないが土手上にも建物が建っていたようだ。

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17 土手の端部1
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18 土手の端部2
 土手の鉄道敷側の端。鉄道敷とはコンクリート製の柵で区切られていた。

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19 鉄道敷と反対側の土手
 線路越しに反対側の土手(概念図の土手部②)が見えている。

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20 土手部から谷部方面を見る
 土手側から谷の方を見たショット。V字型の谷や台地上の十条台小学校が見える。

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21 ラストシーン1
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22 ラストシーン2
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23 ラストシーン3
 ラスト、南橋上から望遠で刑事達を写し、谷の全景にズームアウトする。

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24 トンネル
 この回ではないが、「特別機動捜査隊」第156話「みだれ」では区道が土手をくぐるトンネルが写っている。トンネルのアーチの部分は現在近くのちんちん山児童遊園に保存されている。

【音無橋一帯】
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25 石神井川と音無橋
 第193話「罪と罰」では王子スラムのほかに王子駅付近、石神井川の音無橋一帯も写っている。現在音無橋の下は親水公園化されているが、まだあたりが深い渓谷で堰があった頃の様子が記録されている。

 

 なお王子スラムが登場する映像作品としては1979年柳町光男監督の「十九歳の地図」が知られている。「特別機動捜査隊」はモノクロの作品で画質は悪いが、地区内をくまなく家の中まで撮影した作品としてまた貴重な映像資料と言えるのではないか。【吉】

 

2025.04.14

戸塚暗渠の水路と清水川の位置

「高田馬場2丁目 謎のトンネル(戸塚暗渠)」で、戸塚暗渠を流れていた水路は「清水川の下流であると思われる」と述べたが、文中で軽く触れただけであったので改めて地図上で根拠を示したいと思う。

 

使用した資料

清水川はかなり小さな川であったようで、日本帝國陸地測量部の旧1万地形図(明治44(1911)年〜昭和2(1927)年)には記載されていない。その概略の流路は逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)で知ることができる。また林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期、以下旧地籍図という)には土地の地番とあわせ水路が「河溝」として示してあり、より正確な場所を知る手がかりとなりそうである。

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■逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)には清水川が表記されている

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■林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期) 当時の水路が着色されている

 

清水川の位置の特定方法

今回はこれら旧地籍図の水路を現在の地籍図と重ねることで清水川の位置の特定を試みた。ただし旧地籍図は地図としての正確さに劣り現在の地図と重ね合わせることはできないので、以下のような手順をとった。

①旧地籍図上で水色に着色された「河溝」(水路)およびその周囲の土地の地番を把握する。

②現在(令和6(2024)年)の地籍図上で①で把握した地番に対応する土地を特定し、それとの位置関係や形状から「河溝」に対応する土地を旧河道として割り出す。

なお土地の地番は分筆(土地の分割)や合筆(土地の併合)により変わることや、現在の地籍図と地図を重ねる際に参考にしたブルーマップ(地籍図と地図の重ね図)が必ずしも正確でないことなどにより、特定した旧河道には若干の誤差があると思われる。

 

位置の特定の実際

以下に実際の作業図を用いながら作業の詳細を解説する。

①旧地籍図の「河溝」(水路)とそれに隣接する地番の把握

林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年)をもとに河溝部分および水路の可能性が高い無地番地を着色、河溝に隣接する地番とその範囲を記入した。

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■旧地籍図 土地の境界、地番や地目が記入してある

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■河溝の着色 河溝(水路)の部分を着色。地番のない土地も水路の可能性があるので着色する。

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■隣接する地番の把握 水路に隣接する土地の境界と地番を記入。地番84-85と83-86の間に水路がある。

 

②現地籍図上での地番の把握

①で把握した地番に対応する土地の範囲と地番を記入した。

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■現地籍図 令和6(2024)年現在の土地の境界・地番

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■土地・地番の記入 旧地籍図で水路に隣接していた土地の地番・境界を記入。分筆・合筆で土地の形は変わっている箇所もある。

③旧河道の把握

②の地番との位置関係、土地の形状から旧地籍図の河溝(旧河道)の位置を把握、着色した。

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■旧河道の着色 旧地籍図で水路であった地番84-86と83-86の境界付近で水路の形状に似た土地を旧河道と推定した。

 

結 果

上記の作業の結果旧河道として特定したのが下図の赤い箇所である。合筆などにより水路であった土地が周囲の土地と一体となり、正確な位置がわからない箇所については点線で表現した。多少のずれは否めないが、清水川の大まかな位置を特定でき、戸塚暗渠の水路が清水川から連続していることが確認できた。

清水川はほぼ現在の鉄道施設内を流れていたが、戸山口がある第二戸塚ガード付近より上流は鉄道施設の西側の道沿いに流れていたようである。

なお実際の河道は南側の都道を越えた戸山側から流入し、下流はさらに西の方へ流れていたが、戸山は官有地であったことから旧地籍図で詳細は把握できず、北側は戸塚暗渠と無関係なので省略した。

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■旧河道の位置 

 

課題:清水川とはどこからどこまでなのか

今回清水川の旧河道を調べるうち、そもそも清水川とはどこからどこまでなのかという問題につきあたった。

逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)では清水川は高田馬場駅の北で東西に分かれ、東側はまもなく神田川に合流するが(ルート①)、西側は神田川に接したり離れたりしながら延々と小滝橋付近まで流れている(ルート②)。

一方戸塚町誌刊行会「戸塚町誌」昭和6(1931)年には「細流素々として戸山より落ち、大字戸塚地内を南北に流れて山手線ガード下にて神田上水に入る。」という地図にないルート(ルート③)について記載してある。

ルート①、ルート②を流れていた川に、ある時点(昭和初期?)でショートカットして神田川に流すルート③がつくられたのだろうか。

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■逓信協会地図の河道と戸塚町誌の河道

現在ルート②とルート③とほぼ同じルートを下水道の戸塚西幹線とそこから分岐した雨水管が通っている。ルート③は戸塚町誌に記載のある清水川が暗渠化されたものと考えてよいだろうが、ルート③を離れ延々1kmにわたって小滝橋まで流れていたルート②ははたして清水川の下流と呼んでよいのか。西戸塚幹線は清水川の暗渠化された姿と考えてよいのか。

この点が曖昧なまま残された課題である。【吉】

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■現在の下水道西戸塚幹線と分岐した雨水管

<追 記(2025.5.5)>

本田創さんの指摘によれば、2の水路は神田川小滝橋付近に堰をつくって分水した灌漑用の水路(あげ堀)とのこと。

 

 

 

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