2025.06.14

映像の中にみる王子スラム

 「王子バラック」で紹介したいわゆる王子スラムだが、先日60年代のテレビドラマ「特別機動捜査隊」の中にこの場所でロケをしている回を発見したので映像資料として紹介したい。
 「特別機動捜査隊」はNETテレビ(現テレビ朝日)で1961年から1977年まで続いた長寿のテレビドラマだが、今回紹介するのは1965年に放映された第193話「罪と罰」。容疑者の家が王子スラム内にあるという設定で2度ほど特捜隊がここを訪れる。

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■王子スラムの概念図

 今回登場する一帯を地図と記憶をもとに概念図にした。位置関係だけを表しているので距離やサイズは正確ではない。
 王子スラムはその西端を台地上の区道に接していた。そこから東に向かい台地に細い帯状の谷を削りながら低地にまで降りていた。帯状の谷底の両側には木造トタン屋根の粗末な家屋が並び、中央に通路があった。途中都道455号線がこの谷をわたる南橋があり、谷の北側には当時の十条台小学校があった。
 低地にでると細長い土手となって東に伸び、京浜東北線などの鉄道敷の前で一旦途切れるが、その反対側からまた土手が伸び、土手は次第に低くなりながら当時の王子中学校付近まで伸び、一般の区道に溶け込んでいた。鉄道敷の手前には区道が土手をくぐるトンネルがあった。

では特別機動捜査隊のシーンを「谷部」「土手部」にわけて紹介していこう。

【谷部】
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1 南橋からみた谷部1
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2 南橋からみた谷部2
 南橋から谷部を見下ろすシーン。細い道の両側に木造トタン屋根のバラックが建ち並んでいる。
 「王子バラック」で紹介したように、この一帯には終戦直後に都によって石神井川沿いから移住させられた在日韓国朝鮮人たちが多く住んでいたという。画像1の屋根の上には「在日朝鮮人祖国往来実現達成 一層の御支援を願います」とある。在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業は1959年から始まったが、日本と北朝鮮を自由に往来することはできなかったという。当時「祖国往来」を実現するための運動が盛んであり、この看板もロケのために据え付けたものではないだろう(この辺の事情に詳しくないので間違いがあったらすみません)。

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3 南橋からみた谷部3
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4 南橋からみた谷部4
 谷部の全景。前方で谷が開けて低地の方が見えている。

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5 南橋から谷部の全景(1〜4をつなげたもの)
 1〜4の画像をつなげると、規模感を含め当時の南橋からの雰囲気がより伝わるものになった。

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6 南橋から谷部へ降りる道1
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7 南橋から谷部へ降りる道2
 記憶にはないが、南橋の横から谷部へ降りられる道があったようだ。画像5は上から、画像6は下からのショット。

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8 谷部の中央をはしる道1
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9 谷部の中央をはしる道2
 バラックが建ち並び、道幅2m未満の未舗装の一本道が続く。

【土手部】
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10 谷部から土手の下へ1
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11 谷部から土手の下へ2
 谷部を抜け、土手の下にある容疑者の家へ向かう刑事。
 画像10は下から、画像11は上からのショット。画像10の背景に見える建物は台地上にある当時の十条台小学校。

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12 土手下を流れる水路
 土手下の家の裏を水路が流れていたようだ。家の裏側に回らなかったためか。記憶には残っていない。

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13 バラック外観
 容疑者の家。外壁は板を打ちつけただけで、屋根はトタン葺きのようだ。
左上方に土手の上を歩く人物が写っているので家が土手下にあることがわかる。
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14 バラック内部
 容疑者の家。板がむきだしの内装。天井板はなく屋根は板を打ちつけトタンを葺いただけのものか。電気は通っている。前後のシーンがなめらかにつながっているし、室内だけ別の場所で撮る意味もないので現地の家屋を使っているものと思われる。

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15 土手部1
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16 土手部2
 土手部。周囲の家と比べると土地が高くなっているのがわかる。たくさん物干し台が立っている。数は少ないが土手上にも建物が建っていたようだ。

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17 土手の端部1
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18 土手の端部2
 土手の鉄道敷側の端。鉄道敷とはコンクリート製の柵で区切られていた。

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19 鉄道敷と反対側の土手
 線路越しに反対側の土手(概念図の土手部②)が見えている。

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20 土手部から谷部方面を見る
 土手側から谷の方を見たショット。V字型の谷や台地上の十条台小学校が見える。

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21 ラストシーン1
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22 ラストシーン2
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23 ラストシーン3
 ラスト、南橋上から望遠で刑事達を写し、谷の全景にズームアウトする。

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24 トンネル
 この回ではないが、「特別機動捜査隊」第156話「みだれ」では区道が土手をくぐるトンネルが写っている。トンネルのアーチの部分は現在近くのちんちん山児童遊園に保存されている。

【音無橋一帯】
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25 石神井川と音無橋
 第193話「罪と罰」では王子スラムのほかに王子駅付近、石神井川の音無橋一帯も写っている。現在音無橋の下は親水公園化されているが、まだあたりが深い渓谷で堰があった頃の様子が記録されている。

 

 なお王子スラムが登場する映像作品としては1979年柳町光男監督の「十九歳の地図」が知られている。「特別機動捜査隊」はモノクロの作品で画質は悪いが、地区内をくまなく家の中まで撮影した作品としてまた貴重な映像資料と言えるのではないか。【吉】

 

2025.04.14

戸塚暗渠の水路と清水川の位置

「高田馬場2丁目 謎のトンネル(戸塚暗渠)」で、戸塚暗渠を流れていた水路は「清水川の下流であると思われる」と述べたが、文中で軽く触れただけであったので改めて地図上で根拠を示したいと思う。

 

使用した資料

清水川はかなり小さな川であったようで、日本帝國陸地測量部の旧1万地形図(明治44(1911)年〜昭和2(1927)年)には記載されていない。その概略の流路は逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)で知ることができる。また林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期、以下旧地籍図という)には土地の地番とあわせ水路が「河溝」として示してあり、より正確な場所を知る手がかりとなりそうである。

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■逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)には清水川が表記されている

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■林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期) 当時の水路が着色されている

 

清水川の位置の特定方法

今回はこれら旧地籍図の水路を現在の地籍図と重ねることで清水川の位置の特定を試みた。ただし旧地籍図は地図としての正確さに劣り現在の地図と重ね合わせることはできないので、以下のような手順をとった。

①旧地籍図上で水色に着色された「河溝」(水路)およびその周囲の土地の地番を把握する。

②現在(令和6(2024)年)の地籍図上で①で把握した地番に対応する土地を特定し、それとの位置関係や形状から「河溝」に対応する土地を旧河道として割り出す。

なお土地の地番は分筆(土地の分割)や合筆(土地の併合)により変わることや、現在の地籍図と地図を重ねる際に参考にしたブルーマップ(地籍図と地図の重ね図)が必ずしも正確でないことなどにより、特定した旧河道には若干の誤差があると思われる。

 

位置の特定の実際

以下に実際の作業図を用いながら作業の詳細を解説する。

①旧地籍図の「河溝」(水路)とそれに隣接する地番の把握

林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年)をもとに河溝部分および水路の可能性が高い無地番地を着色、河溝に隣接する地番とその範囲を記入した。

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■旧地籍図 土地の境界、地番や地目が記入してある

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■河溝の着色 河溝(水路)の部分を着色。地番のない土地も水路の可能性があるので着色する。

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■隣接する地番の把握 水路に隣接する土地の境界と地番を記入。地番84-85と83-86の間に水路がある。

 

②現地籍図上での地番の把握

①で把握した地番に対応する土地の範囲と地番を記入した。

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■現地籍図 令和6(2024)年現在の土地の境界・地番

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■土地・地番の記入 旧地籍図で水路に隣接していた土地の地番・境界を記入。分筆・合筆で土地の形は変わっている箇所もある。

③旧河道の把握

②の地番との位置関係、土地の形状から旧地籍図の河溝(旧河道)の位置を把握、着色した。

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■旧河道の着色 旧地籍図で水路であった地番84-86と83-86の境界付近で水路の形状に似た土地を旧河道と推定した。

 

結 果

上記の作業の結果旧河道として特定したのが下図の赤い箇所である。合筆などにより水路であった土地が周囲の土地と一体となり、正確な位置がわからない箇所については点線で表現した。多少のずれは否めないが、清水川の大まかな位置を特定でき、戸塚暗渠の水路が清水川から連続していることが確認できた。

清水川はほぼ現在の鉄道施設内を流れていたが、戸山口がある第二戸塚ガード付近より上流は鉄道施設の西側の道沿いに流れていたようである。

なお実際の河道は南側の都道を越えた戸山側から流入し、下流はさらに西の方へ流れていたが、戸山は官有地であったことから旧地籍図で詳細は把握できず、北側は戸塚暗渠と無関係なので省略した。

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■旧河道の位置 

 

課題:清水川とはどこからどこまでなのか

今回清水川の旧河道を調べるうち、そもそも清水川とはどこからどこまでなのかという問題につきあたった。

逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)では清水川は高田馬場駅の北で東西に分かれ、東側はまもなく神田川に合流するが(ルート①)、西側は神田川に接したり離れたりしながら延々と小滝橋付近まで流れている(ルート②)。

一方戸塚町誌刊行会「戸塚町誌」昭和6(1931)年には「細流素々として戸山より落ち、大字戸塚地内を南北に流れて山手線ガード下にて神田上水に入る。」という地図にないルート(ルート③)について記載してある。

ルート①、ルート②を流れていた川に、ある時点(昭和初期?)でショートカットして神田川に流すルート③がつくられたのだろうか。

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■逓信協会地図の河道と戸塚町誌の河道

現在ルート②とルート③とほぼ同じルートを下水道の戸塚西幹線とそこから分岐した雨水管が通っている。ルート③は戸塚町誌に記載のある清水川が暗渠化されたものと考えてよいだろうが、ルート③を離れ延々1kmにわたって小滝橋まで流れていたルート②ははたして清水川の下流と呼んでよいのか。西戸塚幹線は清水川の暗渠化された姿と考えてよいのか。

この点が曖昧なまま残された課題である。【吉】

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■現在の下水道西戸塚幹線と分岐した雨水管

<追 記(2025.5.5)>

本田創さんの指摘によれば、2の水路は神田川小滝橋付近に堰をつくって分水した灌漑用の水路(あげ堀)とのこと。

 

 

 

2025.03.10

高田馬場2丁目 謎のトンネル(戸塚暗渠)

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 謎のトンネルの発見、わき起こる疑問 

先日高田馬場でふと西武新宿線のわきの道路を歩いてみる気になった。映画「警視庁物語 遺留品なし」(1959)でこの道の奥にあるダンス教室で話を聞くシーンがある。今どんな雰囲気になっているか気になったのだ。進行方向右手は稲門ビルという大きなビル。左手は西武新宿線の擁壁に貼りつくように小さな店が建ち並ぶ。

 そして立ち並んだ一番奥の店、その陰に隠れるように小さなトンネルがあるのを発見した。

 入口は半分以上店の建物で隠れ、開口部はネットフェンスと鉄骨で塞いである。中を覗くと店の建物が中まで続き、エアコンの室外機が置いてあった。

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■店の陰のトンネル

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■トンネル内部

 

 ここで線路の反対側を確認したくなった。はたして反対側までトンネルが続いているのだろうか。

 一旦早稲田通りまで戻り、西武線のガードをくぐり、タックイレブンビルと山手線の間の道を入る。この場所、高田馬場2-19一帯は西武線と山手線の間に挟まれ、奥は神田川で行き止まりになった袋小路状の場所だ。

 袋小路を奥にはいると、少しわかりにくい場所だったが反対側のトンネルを発見したコンクリートの擁壁の下、まわりより少し低くなった場所に、反対側と同じ形のトンネルが空いていた。やはりネットフェンスと鉄骨で塞いであり、中には店舗用とみられる椅子や什器が乱雑に置かれていた。奥には反対側の開口部が見えている。

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■反対側の開口部

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■トンネル内部

 

 このトンネルについてツイートしたところ情報が寄せられた。高田馬場FIビル2階のエレベーターホールに高田馬場の昔の絵地図がパネルにしてあり、そこにトンネルに関する記載があるというのだ。

 さっそく現場に行ってみた。

 「記憶の家並みと商店街 1935年代の高田馬場1〜2丁目」と題した、幅3mにもわたるパネルにびっしり描き込まれたこの絵地図は、地元で育った濱田熙氏が昔のスケッチや同級生の記憶などをもとに1990年から2001年にかけて作成したものだ。

 その一端、問題のトンネルに相当するあたりに「高さ2.5メートル位の小さなトンネル」と書いた吹き出しが書いてあるではないか。

 それではあのトンネルは通路だったのだろうか。ではなぜ今塞がれているのか。道が閉鎖されるなどということがあるのだろうか。

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■記憶の家並みと商店街

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■トンネルに関する記述

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■トンネルの位置

 

 いきなり結論 

 以下この疑問を解くべく収集した様々な資料、およびそれによってわかった事実について書いていくが、長くなるのでまず結論から書いていこう。


・このトンネルは「戸塚暗渠」。

・もともとこの場所に神田川に流れ込む水路
 (清水川の下流と思われる)があったが、
 1927年西武新宿線)を建設する際
   水路を暗渠(地下水路)化しトンネルをつくり通した。

所有者は西武鉄道(元土手の部分)と新宿区(元水路の部分)。

・閉鎖の経緯は解明できなかった。 

 調査の過程に興味がある方はここから先を読み進めてほしい。

 

 登記簿:トンネルの所有者は西武鉄道+α 

 まず所有者を知るため法務局地図で地番を調べ、土地の登記簿を取得した。トンネル内を2本の細い土地が貫いている。一方の地番は高田馬場2-24-6、西武新宿線と同じ西武鉄道の所有。もう一方は地番のない「長挟物(ちょうきょうぶつ)不明」、すなわち道や水路で境界が不確定な土地だ。登記簿がないためこの土地の所有者はこの時点ではわからなかった。

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■法務局地図

 

 道路台帳:道路法上の道路ではない/もうひとりの所有者は新宿区 

 一方新宿区の道路台帳を調べると、トンネルが幅0.91mの道として記載されていた。道路台帳に掲載されているということは、やはり道路なのだろうか?

 この点を確認するため新宿区道路課にヒアリングをした。その結果道路台帳には記載されているが法令上の「道路」にはあたらず新宿区所有の「特定公共物」(道路法が適用されない道や河川法が適用されない水路)だという回答であった。

 つまり道路ではないこと、法務局地図で「長挟物不明」と表示されている部分は新宿区の所有であることが判明した。

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■道路台帳

 

 地籍図:もとは水路と土手 

 大正4(1915)年の「東京府豊多摩郡戸塚町大字戸塚地籍図」を確認した。地番2-24-6は記載がなかったが、のちにその一部が分かれて(分筆されて)2-24-6となる地番2-24-4が確認できた。灰色に着彩されており、凡例によれば「土揚敷」(いわゆる土手)であったことがわかった。そしてそれに沿って神田川にそそぐ水路が確認できた。

 つまりこのトンネルのうち西武鉄道所有の地番2-24-6はもと土手であり、新宿区所有の土地はもと水路であったのだ。


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■地籍図

 

 市街図:神田川に流れ込む水路(清水川か)が流れていた 

 広域的に確認するため明治44(1911)年の「戸塚町市街図」を確認した。地番24と番号のついた土地はやはり水路沿いにあった。かつては山手線付近から流れてきた水路がこの一帯をよこぎり神田川にそそいでいたことがうかがえる(地籍図で確認したところ、この水路は清水川と無地番の土地でつながっていることから、清水川の下流であると思われる。なお現在清水川は山手線の西側を流れていることから、ある時点で改修されたものと考えられるが、この点は未確認)。

 昭和2(1927)年ここに水路をよこぎるように西武新宿線が建設される。その際に、水路の機能を残すためにトンネルを通したことは十分考えられるのではないか。

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■市街図

 

 西武鉄道からの情報:施設の名称は「戸塚暗渠」 

 だめもとで所有者のひとりである西武鉄道にメールで問い合わせしたところ、回答をいただいた。トンネルが閉鎖された経緯はわからないが、トンネルの名称は「戸塚暗渠(とつかあんきょ)」であるという情報をいただいた。名称が「暗渠」(地下に埋められた水路)ということは、やはりトンネルの下にはかつて流れていた水路が通っているのだ。

 「戸塚暗渠」で文献を探したところ、「西武鉄道村山線の工事概要」(工事画報社「土木建築工事画報」昭和3年10月号)という雑誌記事が見つかった。西武新宿線の前身西武鉄道村山線について、西武鉄道の当時の社長岡野昇氏が完成直後に書いた記事である。西武鉄道村山線は昭和2(1927)年4月16日に山手線外側に高田馬場仮駅を設置し営業を開始していたが、省線(現JR)高田馬場駅に連絡させる工事は昭和3(1928)年4月14日まで続いた。その際に戸塚暗渠がつくられたというのだ。そこには「戸塚暗渠は径間十フィートの拱渠にして全部コンクリート構造とす」とあった。「拱渠(こうきょ)」とはアーチ状にして水路を通す構造物のことで、径間はおおむねトンネルの幅、10フィートは3.048mだ。12_20250309122301
■「西武鉄道村山線の工事概要」(工事画報社「土木建築工事画報」昭和3年10月号)

 

 下水道台帳:下水道の存在は確認できず 

 トンネルの下に水路が通っていることを確認できないかと思い、下水道台帳を確認したが、記載はなかった。東京都の下水道局によれば下水道台帳に載っているのは公共下水道のみであって、私有地内などの排水管については把握していないということだった。

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■下水道台帳

 

 新宿区道路課と西武鉄道:閉鎖の経緯は不明 

 閉鎖の経緯について、前述のように西武鉄道から情報は得られなかった。一方新宿区道路課のヒアリングでは、安全上の問題など何らかの問題があった場合、西武鉄道と新宿区が協議の上閉鎖することはありうるという回答だった。

 

 以下推測:閉鎖の経緯 

 水路がある地区に鉄道をつくるため水路を通すトンネルがつくられ、水路自体は暗渠化した。とすれば地上部は通行に使われていたのではないか。絵地図にあった「小さなトンネル」という表現も当時通行できたことを示しているように感じられる。

 しかし通路として必要性のあるルートではないことからあまり利用されず、通行者の安全性への懸念などもあり、西武鉄道と新宿区が協議の上閉鎖したのではないかと推測する。

 

 このトンネルを改装し、飲食店として活用することを妄想した。客が数人しか入れない飲み屋を開き、夜は赤い光で照らしたい。トンネルのある一帯も怪しげだが、それ以上に秘密めいた、魅力的な空間になるのではないか。【吉】

 

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