« 愛の告白に精液を瓶一本分送りつけた男 | トップページ | ペニス泥棒、今度は中央アフリカに出没か »

2013年3月10日 (日)

強制収容所を生き延びた「アウシュヴィッツの七人の小人」

 彼らは「アウシュヴィッツの七人の小人」として知られ、ナチスの医師ヨーゼフ・メンゲレの遺伝の実験に使われていたという。彼らオーヴィッツ一家は奇跡的に強制収容所の中で生き延びた。
 「スター・ウォーズ」のイウォーク役や「ハリー・ポッター」シリーズのフリトウィック教授役で知られるワーウィック・デイヴィスさんは、ルーマニア文化協会と駐英イスラエル大使館が制作した一家についてのTVドキュメンタリーに関わる中で2012年の12月にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、一家についてサン紙に語った。

 オーヴォッツ一家はウクライナに近いルーマニアの小さな村ロザヴレア出身だ。1944年5月18日、彼らはルーマニアのゲットーから3日間家畜運搬用の車両に揺られアウシュヴィッツについた。ロジカ(57)、フランジスカ(55)、ミッキ(33)、エリザベス(30)、アヴラム(30)、フリーダ(28)、ペルラ(23)の7人は、18か月から58歳までの普通の身長の兄弟5人と一緒だった。一緒に到着した人々の10人に9人はそのままガス室行きとなった。

 一家のルーツは20世紀初頭の小人症の怪力男「サムソン」に遡る。サムソンは通常の身長の最初の妻との間に2人の小人症の子供を設けた。妻が33歳で亡くなった後、やはり通常の身長の次の妻ベルタは8人の子供を設け、うち5人が小人症だった。
 サムソンは50代で亡くなり、その後ベルタは10人の子供を一人で育てた。子供は皆音楽学校で楽器、歌、ダンス、演技を学んだ。一般の小人症の人々が見世物小屋で見世物となる中、一家は学校で磨いた技術で「リリパット座」としてヨーロッパじゅうを興行してまわった。

 1944年4月7日、ハンガリーの内務大臣はユダヤ人全員をゲットー送りにする法令にサインした。オーヴィッツ一家はどこに行っても人々を楽しませられるようにと服や食料とともに化粧道具や衣装を鞄に詰めたという。ロジカとフランジスカはバイオリンを、ペルラはギターを、エリザベスは太鼓を持った。一家は他の3,500人のユダヤ人とともにドラゴミレシュティのゲットーに収容された。そこでは多くの人が病気や栄養失調で命を落とした。
 1944年5月半ば、ゲットーの収容者全員に歩いて9時間かかる鉄道駅への移動が命じられた。幸い一家は行程のほとんどを荷車に乗せてもらうことができたという。駅に着くとユダヤ人達はライフルの台尻で家畜用車両に乗るよう追い立てられた。自分の背より高い車両の床に一家は知人の助けで乗り込むことができた。一家は80人の人々と3日間真っ暗な換気も飲水もない貨物車で過ごした。トイレはバケツで済ませた。アウシュヴィッツまでの道のりの中、何人もの人々が死んでいった。
 アウシュヴィッツに到着した時、ガス室の煙突からのぼる煙をみてペルラは「あそこはパン屋さんね」と言ったという。それを聞き縞模様のパジャマ姿の収容者の男性は「自分がどこに連れてこられたか知らないのか? あれはパン屋じゃない。ここはアウシュヴィッツだ。お前はもうすぐオーブンで焼かれて死ぬんだよ。」と答えたという。

 しかし別の運命がオーヴィッツ一家を待ち受けていた。親衛隊が彼らを一般の収容者から引き離したのだ。一家はエンターテインメントの仕事がもらえないかとリリパット座の絵葉書を親衛隊に見せた。しかし親衛隊が彼らを連れて行ったのはメンゲレのところだった。
 メンゲレは人間の成長に関する遺伝子のはたらきを明らかにしようとしていた。血のつながりがあり、通常の身長の兄弟もいる一家にメンゲレは興味を惹かれた。メンゲレは一家を見ると「これで20年間は研究に困らないぞ」と言ったという。母親のベルタが今際の際に「いつも一緒に行動し、お互いに気をつけていなさい」と言った言葉が一家を救ったのだ。
 ほかの小人症の人々は写真で記録を撮られた後射殺された。一家の後に到着した親子は射殺された後、煮られて骨の標本にされ、ベルリンの博物館に送られたという。酸のプールに漬けられた者もいた。しかし一家は第三帝国の支配民族をつくろうとする「死の天使」によって救われたのだ。
 メンゲレが彼らを収容所から連れだそうとした時、一家は同じ村の、彼らを貨物車に乗せてくれた男性を含む2家族を親戚だといって呼び寄せ、12人がガス室行きから救われた。

 1944年の6月、一家に最初の実験が行われた。骨髄を採取され、1日に何度も血液を採取され、意識がぼんやりし常に痛みを感じていたという。耳に湯や水を注ぎ込まれ、歯を抜かれX線写真を何枚も撮られ放射線を多量に浴びた。ペルラは次の実験はもっと恐ろしいことになるのではないか、あるいは用済みになって殺されて煮られるのではないかと心配をしていた。「私たちはもう収容所からは出られないと諦めていました。」「私たちの頭蓋骨がベルリンに送られじろじろ見られることを考えるとぞっとしました。」と彼女は語っている。

 1945年1月17日、メンゲレは逃亡した。ソ連軍がアウシュヴィッツの5,800人の収容者を開放した10日後だった。一家は8か月の苦難を耐え、全員が生き延びた。
 解放後一家はソ連に、つづいてイスラエルのハイファに移住しエンタテイナーとしての活動を再開した。
 活動の休止は1955年訪れた。実験の影響で一家は体力を失い、ペルラさんは歩くことがままならなくなってきたからだ。しかし一家は稼いだ金で大きなアパート、映画館2館、カフェを買い取り、晩年は安寧に過ごしたという。
 2001年、一家で最後に残ったペルラ(80)は語っている。「私は悪魔の恩寵を受け生き延びました。神はメンゲレに当然の報いをお与えになったんです。」 メンゲレは南米に逃亡し1979年心臓発作で死亡している。(The Sun:一家の画像あり)【吉】

3月 10, 2013 at 05:31 午後 今日のトピックス |

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/2366/56927747

この記事へのトラックバック一覧です: 強制収容所を生き延びた「アウシュヴィッツの七人の小人」: