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1996年1月

1996.01.21

映画「天国と地獄」権藤邸探索顛末記

天国と地獄■事の発端 −O氏の書込み

 事の発端は、Nifty-ServeでのO氏の書込みでした。「黒澤明の『天国と地獄』の権藤邸は今どうなっているのでしょうか」。それからこの一言が頭の片隅にひっかかっていました。そしてやがて、この答を得るために走り回ることになったのです。

■H邸の発見

 ある時、私は横浜の三ツ沢で仕事を終えた後、ふと権藤邸を見つけてみようという気になりました。『天国と地獄』では実在の地名が使われており、権藤邸は西区の浅間台にあって、三ツ沢からそう遠くないことを知っていたのです。
 浅間台につくと、視界がひらけるところ、鉄筋の箱型の家を探しました。しばらく歩くと突然目の前が開け、見た覚えがあるような風景が広がりました。後ろを見ると鉄筋の箱型の家があります。ほかに眺望が開け、目指す形の家がある場所はありません。丘の下から見ると、その家一軒だけが低地を睥睨するように正面を向いています。いよいよあの家が権藤邸ではないかとの思いが強まります。私はもう一度その家の前に戻りました。その家はH邸といいました。

■裏付けをとる(1) −東宝H氏へのヒアリング

 H邸=権藤邸とにらんだ私は、その確認をとりたいと思いました。
 まず私は東宝で当時の資料を確認するのが早道と考え、東宝の広報部に連絡しました。様々な人の仲介を経て、当時の事情をよく知っているH氏の話を聞くことができました。
 H氏からは「実際に建っていた家を使ったと思う。カメラ写りをよくするため大きなガラスを据え付けて窓を大きく見せた記憶がある」との証言を得、私は「H邸=権藤邸」との確信をますます強めたのでした。

■裏付けをとる(2)  −昭和35年、39年明細地図

 並行して私は当時の地形図や明細地図にあたってみようと考えました。そこにH邸だけがぽつんと一件載っていればしめたものです。H邸が権藤邸である可能性はかなり高まるでしょう。
 まず横浜市の都市計画課、続いて横浜開港記念館の図書室にあたった私は、横浜市立図書館に昔の明細地図があることをつきとめ、そこで製作当時(昭和38年頃)の明細地図の写しを入手しました。

■裏付けをとる(3)  −映像と現場の比較

 しかし、当時の明細地図ではH邸は見つかりませんでした。公開翌年の地図でもH邸の場所はさら地のままです。それでも「H邸=権藤邸」と強く思い込んでいる私は「調査してから地図を出す間に建つこともあるさ」などと考えていました。
 文献を信用できなくなった私は現場でH邸と映像を見較べることを思い立ち、「天国と地獄」をダビングしたテープとハンディカムを持ち、現場へと赴きました。

■新たな展開 −老婦人の証言

 しかし改めて現場に行き、映像と目の前のH邸を較べると、どうも違うのです。屋根の形が違いますし外装にも同じ点がみつかりません。途方に暮れた私は何度も何度もH邸の回りを行ったり来たりしていました。
 するとある家から60歳くらいの女性が声をかけてきました。「どこのお宅を探してらっしゃるの?」。私がこれまでの経緯を話し始めたところ、すかさず答が返ってきました。やはり地元ではあの映画は話題になっているようです。その女性はH邸から200m程離れたF邸が権藤邸だと聞いていること、H邸は建ってまだ十年くらいしかたっていないことを教えてくれました。

■F氏への手紙

 私はすぐにF邸に行ってみました。なるほど鉄筋作りの陸屋根、丘の上から低地側に正面を向けていますが、少し小さすぎる気がします。しかしなんとか確認をとりたいと思った私は表札の住所と名前を書き写し、後日F氏に手紙を書くことにしました。
 F氏には突然の非礼を詫びながら、お宅が権藤邸であるかどうか、違うとしたら何か知っていることはないかお聞きし、自宅の住所と電話番号を書き添えました。
 後日F氏から電話がありました。残念ながらF氏宅も権藤邸ではないとのことでしたが、「隣りのマンションのある場所でセットを組んだと聞いている」と教えてくれました。また新たな説が出てきたのです。

■文献の発見

様々な私の努力にもかかわらず、答は突然簡単なところから見つかりました。ドナルド・リチー「増補 黒澤明の映画」(教養文庫)に答が載っていたのです。

「主要セット権藤の居室は二重に作られた。すなわち全く同一の主要セットがふたつ建てられたのである。ひとつは東宝のスタジオに、もうひとつは横浜を見晴らして----(中略)---日中の横浜を背景にした一家を見せるシーンは実際にその場所で撮影された。表面上同一の場所からの夜のシーンはさらに第三番目のセット-窓外の横浜の夜景のミニチュア・セットから撮影された。----(中略)---全シーンにわたって、カーテンが引かれている前半の主要部は、東宝のスタジオで撮影された。」[出典:ドナルド・リチー「増補 黒澤明の映画」(教養文庫)]

 すなわち権藤邸はセットで、しかも全シーンを通して使われていたわけではない、ということなのです。同じことは原田真人「黒澤明語る」(福武文庫)の中で黒澤自身の口からも語られていました。なんだ、本を調べればすぐに分かったことだったのです。自分が疑問に思ったことは既に誰かが疑問に思っているものですね。

■そして残された謎

 権藤邸はセットだという事がわかりました。あの家を実際にこの目で見ることができなかったのは残念です。しかし私にはもう2つ気になることがありました。それはO氏とのメールのやりとりで彼が書かれたこと、「パートカラーのシーンで赤い煙を吐いた、あの煙突はどうなったか」「共犯者が潜伏していた別荘のあたりは今どうなっているか」です。
 今度の調査で浅間台から見える煙突はなくなっていましたが、あれはどこの煙突だったのでしょう。私は低地に今もある「古河電気」の工場が怪しいと思っています。また共犯者が潜伏していたのは鎌倉市の腰越二丁目付近だということは地形から割り出しましたが、今でもそこからは江ノ島が岬と重なって見えるでしょうか。これはまた追って報告したいと思います。

■結語

 この30年で、丘の上からの眺望は映像と比べてもどこがどこだか分からないほど変貌していました。遠方には横浜のランドマークタワーが望めます。同じく丘の下からの眺めも大きく変わりました。かつて「天国」と「地獄」を分けていた境はなくなり、丘の斜面は一面の住宅地に覆われ、「天国」から「地獄」までがひとつづきになってしまいました。

丘の上からの眺め 丘の下からの眺め
丘の上からの眺め 丘の下からの眺め

 いや、もはや丘の下には「冬は寒くて眠れない、夏は暑くて眠れない」ような地獄などないのかもしれません。【吉】

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