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2003年1月

2003.01.28

憧れの天本分布図

 今日は私が過去に渋谷で見かけた有名人をランダムに挙げてみたい。

●南部虎弾(スペイン坂)
まだダチョウ倶楽部にいた頃の南部が、派手なジャケットに身を包み、若い娘らを何人も引き連れて歩いていた。

●水木一郎(道玄坂・スエヒロ)
言わずとしれたアニソンキング。我らの“兄貴”だ。NHK「おかあさんといっしょ」の2代目歌のおにいさんでもある。
今はなき道玄坂のスエヒロで、マネージャーらしき人と2人で熱く叫ぶことなどなく、ごく静かに食事をしていた。

●こぼん(109-2・モーツァルト)
漫才の「おぼん・こぼん」の小さい方。今はなきモーツァルトで。関係者らしき人とにこやかに談笑していたと記憶する。

●快楽亭ブラック(109-2・モーツァルト)
立川ワシントン、立川小錦、快楽亭セックス、立川マーガレット、立川平成など、改名記録を持つ噺家。これも今はなきモーツァルトで、
家族らしき方々とお茶を飲んでいた。でかかった。

●ピーター・フランクル(道玄坂)
歩行者天国の道玄坂で大道芸を披露中のピーター・フランクルを目撃。ピーター・フランクル、略してピタンクル。なぜ略すか。

●天本英世(渋谷各地)
何度も見た。あちこちで見た。

 こうして並べてみると、我ながらいい塩梅の人選である。いや、別に私が選んで会ったわけじゃないんだけど。
 それにつけても天本英世である。
 背が高い上に、ネットをかぶったりマントを羽織ったりというあまりに個性的な風貌ゆえ、目立つから何度も目撃してしまうのだろう。ネット上でも彼に遭遇したという証言を幾つか読んだ覚えがある。
 現在「澁谷研究」には、既に失われた建物や事件などの現場を地図に記していく「澁谷遺跡」なるコーナーがあるのだが、いつかこのスタイルで「澁谷天本地図」を作ってみたいものだ。
 天本氏目撃証言をネット上で募り、その場所を渋谷の地図に記していく。最初は地図上にぽつりぽつりと天本アイコンが点在しているだけだろうが、そのうちにある地域には集中的にアイコンが固まったりするかもしれない。そして、天本氏が好んで歩く道=天本ロードが明らかになるかもしれない。
 数多くの「渋谷で天本英世を見た」という確かな証言が必要な上、天本氏のプライバシーを侵害するおそれもあり、実現はなかなか難しいとは思うが、「澁谷天本地図」いつか是非作ってみたい。【み】

道頓堀劇場

百軒店への入口近くにあるストリップ劇場。渋谷区道玄坂2-28。
 1970(昭和45)年1月16日開業、同年新宿モダンアート劇場のオーナーでもある唐木豊から迎えられ矢野浩祐が支配人となる。矢野は当時横浜や船橋に比べ大人しかった東京のストリップに、「特出し」「SMショー」「外人本番」など過激な出し物をつぎつぎと取り入れた。
 1985(昭和60)年2月、ノーパン喫茶やのぞき部屋など風俗業界の過激化に対し施行された新風営法によって、ストリップ劇場も営業に警察の許可が必要となり、営業停止などの行政処分が可能になるなど規制が強化されることになった。
 これをにらんで矢野は、それまでの路線を1984(昭和59)年6月をもってやめ、客層を若い知性派に絞りこみ、チーム「ザ・かぐや姫」による集団劇形式の舞台を始めた。照明・音楽・舞台のサイクルなどの見直しを行い、演出にTVのディレクターを起用するなどシステム面での改革も行った。また「竹取物語」「雪女」「鶴の恩返し」「鍵」「痴人の愛」「軽井沢婦人」「砂の女」など文芸作品を題材にした演目を中心とした。
 初日終了後倒れた出演者のピンチヒッターとして起用された元OLの清水ひとみが人気を博し、雑誌やスポーツ紙にも大きくとりあげられ、また評論家、作家、コピーライターなどの紹介によって一般のマスコミでも話題となり、“オナニー・クイーン”清水を中心としたアイドル路線は全盛となる。
 1986(昭和61)年清水ひとみはストリップを引退、NHK連続ドラマ「青春家族」、NHK大河ドラマ「秀吉」、五社英雄監督「陽炎」に出演するなど女優としての道を歩む。

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 道頓堀劇場は、清水ひとみや影山莉菜、美加マドカなどいわゆるアイドル・ストリッパーや「白日夢」に主演した“本番女優”愛染恭子のストリップショーのほか、杉兵助、レオナルド熊、ゆーとぴあ、コント山口君と竹田君、コント赤信号(渡辺正行・小宮孝泰・ラサール石井)、中村有志(当時:中村ゆうじ)、ダチョウ倶楽部の肥後克広、楠美津香などのコメディアンも輩出し、お笑いの分野にも大きく貢献をしている。
 1995(平成7)年12月30日、地主が土地を売却するため立ち退きを要求され閉館。最終日は清水ひとみが7年ぶりに舞台にたち、半円型の舞台を囲んだ200人を超えるファンから拍手が沸き起こったという。1996年6月に亡くなった杉兵助とコント赤信号もラスト公演に出演した。
 その後、1999(平成11)年2月札幌ススキノで「札幌道頓堀劇場」をオープン(清水ひとみ社長)。2001(平成13)年6月、渋谷の道頓堀劇場も劇場の親会社がビルを丸ごと買い取り、以前と同じ場所で再開された。以前は地下の30坪だけだった劇場を総工費1億円をかけて改装し、1階を入り口にしカフェや女性用トイレを作った。こけら落とし公演「ザ・キャット」は、ミュージカル「キャッツ」を上演している劇団四季が不正競争防止法に基づく名称使用禁止などを求める仮処分申請を東京地裁に起こし話題になった。

 1996年2月公開の映画「でべそ」(望月六郎監督)は、支配人・矢野浩祐氏の著書「俺の『道頓堀劇場』物語」が原作。社長役に片岡鶴太郎、川上麻衣子がストリッパーに扮し“天狗ショー”シーンを披露した。清水ひとみもダンサー役で出演している。

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▼参考資料
矢野浩祐「俺の『道頓堀劇場』物語」ライトプレス出版社 1991.11.1
田中聡「人物探訪 地図から消えた東京遺産」祥伝社黄金文庫 2000.2.25
日刊スポーツ「愛染恭子 最後のストリップショー、渋谷・道頓堀劇場でスタート」(1994.07.22)
日刊スポーツ「川上麻衣子 ストリッパー役の映画『でべそ』でセクシーショット」(1995.12.12)
産経新聞「渋谷の名所 道頓堀劇場今月で幕 『ヌード』と『お笑い』の25年」(1995.12.16)
読売新聞「東京・渋谷の道頓堀劇場、今月で閉幕 “幕間コント”客にこびず」(1995.12.20)
産経新聞「ストリップ殿堂『道頓堀劇場』25年に幕 渋谷」(1995.12.31)
日刊スポーツ「杉兵助さん 脳こうそくのため死去、コント赤信号らの育ての親」(1996.06.17)
産経新聞「ストリップの殿堂復活 『道頓堀劇場』 東京・渋谷」(2001.05.19)
スポーツ報知「清水ひとみ ストリップ劇場『道頓堀劇場』6年ぶりに渋谷に復活」(2001.05.31)
ZAKZAK「“キャッツ似ストリップ”訴えられる!」(2001.06.12)
ZAKZAK「渋谷・道劇、今度は巨乳で客寄せ」(2001.06.13)
スポニチアネックス「清水ひとみ 東京地裁で審問」(2001.06.16)
産経新聞「【笑芸繁盛】コント 楠美津香 演芸・演劇の“枠”超えて」(2001.09.18) 

渋谷道頓堀劇場

2003.01.25

喫茶店・ヒサモト

地図 宇田川町26、今の文化村通り109の向かいにあった喫茶店。
 丹羽文雄の「恋文」に実名で登場し、田中絹代により映画化された「恋文」にも森雅之が旧友の宇野重吉と語り合うシーンで登場する。このシーンが実際のヒサモトで撮影されたかどうかは不明。
 都筑道夫と常盤新平は、「東京人No.26」の特集「渋谷はいつも今のまち」の「あのころの百軒店の喫茶店」の項で戦後まもなくのヒサモトについて次のように語っている。

都筑:だけどあの当時、渋谷の喫茶店で一番人に名を知られていたのはヒサモトじゃないかな。
常盤:ヒサモトね。ありました、ありました。あそこは、わりとはやっていましたね。
都筑:ケーキなんか食べさせてくれて。
常盤:そうでした、そうでした。わりとファッショナブルな感じの店。

 ヒサモトはその後昭和62年頃一度廃業、約1年のブランクをおいて現在は世田谷区太子堂で営業している。

▼参考資料
「東京人No.26」特集:渋谷はいつも今のまち/常盤新平・都筑道夫「それぞれの世代・それぞれの渋谷−あのころの百軒店の喫茶店」

フレッシュマンベーカリー

地図 1997(平成9)年3月、48年の歴史をもつ店が閉店した。
 店の名は「フレッシュマンベーカリー」。自家製のカツサンドやサラダパンが一部に評判だった惣菜パン屋である。
 店主の後藤昌三さんは戦前パン屋で修業し、復員後の1949(昭和24)年道玄坂小路に店を開いた。当時は配給時代であったため、客が持ち込む配給券で粉を仕入れ、パンを焼いたという。
 翌年妻の岱(たか)子さんと結婚、一時は従業員が4人いたが、のちに岱子さんの弟の岡本正孝さん夫婦と4人で店を切り盛りしていた。
 岱子さんによれば、道玄坂小路は60年代まで、八百屋、ブリキ屋、床屋などが建ち並ぶ職人の町で、子供の歓声や、野良犬の鳴き声が響いていたという。

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2002年7月現在まだ建物は残っている。看板は錆び、辛うじて読めるような状態だが、これは営業していた頃から。閉じた入口には閉店を報じた新聞の切り抜きが貼ってあった。

▼参考資料
1997.04.10 読売新聞東京版 名物パン屋店じまい 東京・道玄坂に48年の「フレッシュマンベーカリー」
1994.10.31 毎日新聞社東京版 [東京さんぽ]渋谷世間話 客は変われど店変わらず
1990.02.16 毎日新聞東京夕刊 [赤でんわ]渋谷の味

2003.01.23

映画「恋文」

製作:1953年
製作:永島一朗 監督:田中絹代 原作:丹羽文雄
脚本:木下惠介 撮影:鈴木博
出演:森雅之/加島春美/夏川静江/宇野重吉/
久我美子/香川京子/木下恵介
(ぴあシネマクラブ)

 丹羽文雄による同名小説の映画化。現在のザ・プライムの裏手にあった恋文横丁(すずらん横丁)に実在した代書屋を舞台にしている。ストーリーはシンプルなメロドラマにしかすぎないが、渋谷駅近辺でロケされており、あたかも監督の田中絹代が当時の街並みを記録することを意図したかのように、50年代の渋谷駅前が克明に映し出されている。

■ストーリー
 真弓礼吉(森雅之)は、互いに慕い合いながら戦争に仲をひきさかれた道子(久我美子)が忘れられず、毎日銀座に、新宿に、道子の姿を追い求めていた。ある日真弓は語学学校時代の友人山路(宇野重吉)に出会う。山路はもっぱら夜の女を相手に、米兵への手紙の代筆を商売にしていた。定職についていない真弓は山路に誘われるまま、代書屋の手伝いをすることになる。 ある日代書屋の裏で休んでいた真弓は、聞き覚えのある声を耳にする。それは夜の女に身をおとしていた道子だった。真弓は道子を激しくなじり、道子は別れを告げる。道子を慕う心と責める心の間で悩む真弓。弟(道三重三)はそんな兄の気持ちを察し、山路とともに二人の仲をとりもとうとする。かたぎの職についた道子を真弓と引き合わせようとするが、悩む真弓は約束の時間に現れなかった。ついに決意した真弓が約束の場所に急ぐころ、悲観した道子は死を選ぼうと走ってきた車に身を投じたが…。

■三千里薬局、ハチ公、喫茶ヒサモト
 まず森雅之が旧友の宇野重吉と出会うシーン。このシーンの冒頭で、今の109-2からJRのガードのあたりまでが俯瞰される。三千里薬局の看板で一目でそれとわかる。三千里薬局の背後には今もある三和(現UFJ)銀行が。森と宇野が出会う背後にはハチ公。その後二人は喫茶店で語らうが、このヒサモトという喫茶店は実在しており、現在は世田谷区太子堂に移転している。

■すずらん(恋文)横丁
 宇野が森を自分の代書屋の店に連れていくシーンで、後の恋文横丁となる「すずらん横丁」を通る。よくできたセットだと思っていたが、1950〜60年頃の地図と比べると、「餃子の味楽」など看板に実在していた店の名が見受けられ、位置関係からみると実際に恋文横丁の代筆屋界隈でのロケらしい。

■道玄坂上交番
 森の弟役の道三重三が、古本屋の出店場所について交番に交渉にいく。この交番の入口には「道玄坂上…」という文字が見える。現在のマークシティの入口の位置にあった道玄坂上交番だろうか。

■現109あたりからハチ公前、井の頭線入口とホーム

 やがて森は代書屋に現れたかつての意中の人久我美子を追って大通りへ出る。ここから久我に追いつくまでのシーンは、当時の渋谷駅前が存分に映し出されている。
 すずらん横丁から通りへ出る森。左側に「サモワール」という店が。現在の(当時もあったが)美々薬店の横から文化村通りへ出た形である。なおこのサモワールは現在は東急本店から円山町へ上る坂沿いに移転して現存するとのこと(「狷介老人徘徊日記」による)。
 通りを行く森。その背後には「アポロ」「渋谷スポーツ社」「さかえ寿司」ボタン屋の「アザミ」などの名が見える。今の109のあたりにかつて道玄坂と文化村通りをショートカットする通りがあった。そのあたりである。


恋文1
「恋文」は、実際に恋文横丁の付近で撮影された。青色が火災保険特殊地図による当時の建物。現在の建物との位置関係は若干ずれがある可能性がある。

 森が横断歩道を横切る背後には、現109の場所にあった洋品店「三丸」が。道玄坂下に渡った森を追いかけてカメラは高所からパンするが、「丸南」甘味の「うちだ」「大和田果物店」「みつわ玩具」などという店が映っている。このうち「丸南」「大和田果物店」は現在もある。道玄坂下から井の頭線大和田口にかけての一帯だ。
 ハチ公前に来た森は、久我の姿を認め、現在の井の頭線高架下のあたりにあった、建物と建物に挟まれた井の頭線入口の階段を上る。角帽の学生が多いのは駒場へ向かう東大の学生か。そして屋根がなく日がふりそそぐ当時の井の頭線のホームで、森はようやく久我と再会できるのである。

恋文2
映画の中で久我美子を追う森雅之の足どり

 この後は森と久我の心のすれ違いが話の中心となり、あまり渋谷の街は出てこないが、このほかにもこの映画にはボンネットバスやオート三輪が走り回る銀座四丁目、新宿駅ホームの雑踏、夜の日比谷公園界隈が映し出されており、貴重な映像記録となっている。
 なお久我の下宿を尋ねていった道三が、宿主に自分の店を「渋谷の三角地帯にある店」と紹介している。当時すずらん横丁や109のあった闇市の地域は「三角地帯」という名称で一般に通じていたことを伺わせる。

▼参考資料
「恋文」(DVD)
ぴあシネマクラブ
狷介老人徘徊日記
冨田均「東京映画名所図鑑」平凡社 1992.2
常盤新平・都筑道夫「それぞれの世代・それぞれの渋谷−あのころの百軒店の喫茶店『東京人No.26 特集:渋谷はいつも今のまち』」 財団法人東京都文化振興会1989
中林啓治「記憶の中の街 渋谷」河出書房新社 2001.9.20
東京都全住宅案内図帳 渋谷区(西部) 住宅協会1958頃
火災保険特殊地図 日本火保図株式会社195?年

2003.01.22

東急文化会館

bunkakaikan 渋谷区渋谷2-21-12にある東急の文化施設。

 平成14年(2002)5月、東急は東急文化会館を平成15年(2003)6月末日をもって閉鎖・解体することを発表した。解体後は東横線と営団13号線の相互直通運転のための「渋谷駅〜代官山駅間地下化工事」の作業基地として利用される。その後の土地利用についてはこの時点ではまだ決まっていない。

 現在の東急文化会館およびその前のバスターミナル付近には、戦前東京市立渋谷小学校があった。本社の建設用地を探していた東急は、昭和18年(1943)、同校の移転に伴いその敷地2、550m²を東京市から譲り受けた。東急はとりあえず木造校舎を本社分室として使用していたが、昭和20年(1945)5月24、25日の渋谷を襲った空襲で全焼してしまった。
 戦後この土地をハチ公前の様に不法占拠されることを恐れた東急は、「地元有力者」である大宮福之助に管理を依頼した。大宮はここにバラックを建て「渋谷第一マーケット」とした。

bunkakaikan その後都は戦災復興事業の一環である明治通りの拡張のため、昭和28年(1953)3月を期限に渋谷第一マーケットの撤去を東急側に命令してきた。マーケット側の強い抵抗もあり、昭和30年(1955)に漸く東急は70店舗の半数以上と立ち退きの契約を成立させ、残りの半数は現在の文化村通り沿いに確保した代替地への移転で話をまとめた。
 この道路用地の換地として隣接地約5,000m²を獲得し、これが東急文化会館の敷地となる。

 昭和31年(1956)12月、最新の文化施設として同地に東急文化会館が開業。同時に公道上を民間企業が利用する初のケースとしてかなり物議をかもした、明治通りをまたぐ跨道橋が完成した。延床面積約30、000m²、地下1階、地上8階。

 開業当時のフロア構成は以下のとおりである。このうち平成12年7月に東急ゴールデンホールが、平成13年3月に五島プラネタリウムが閉鎖している。

8F大社婚儀殿/東急ゴールデンホール/五島プラネタリウム
7F東急ゴールデンホール
6F東急名画座
5F渋谷東急
4F東京田中千代服装学園
3F理髪店/美容室
2F文化特選街
1F渋谷パンテオン/東急不動産渋谷営業所/文化三共薬局
B1東急ジャーナル/文化地下食堂
▼参考資料
「東京急行電鉄50年史」東京急行電鉄株式会社1973.4.18
東京急行電鉄

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