道頓堀劇場
百軒店への入口近くにあるストリップ劇場。渋谷区道玄坂2-28。
1970(昭和45)年1月16日開業、同年新宿モダンアート劇場のオーナーでもある唐木豊から迎えられ矢野浩祐が支配人となる。矢野は当時横浜や船橋に比べ大人しかった東京のストリップに、「特出し」「SMショー」「外人本番」など過激な出し物をつぎつぎと取り入れた。
1985(昭和60)年2月、ノーパン喫茶やのぞき部屋など風俗業界の過激化に対し施行された新風営法によって、ストリップ劇場も営業に警察の許可が必要となり、営業停止などの行政処分が可能になるなど規制が強化されることになった。
これをにらんで矢野は、それまでの路線を1984(昭和59)年6月をもってやめ、客層を若い知性派に絞りこみ、チーム「ザ・かぐや姫」による集団劇形式の舞台を始めた。照明・音楽・舞台のサイクルなどの見直しを行い、演出にTVのディレクターを起用するなどシステム面での改革も行った。また「竹取物語」「雪女」「鶴の恩返し」「鍵」「痴人の愛」「軽井沢婦人」「砂の女」など文芸作品を題材にした演目を中心とした。
初日終了後倒れた出演者のピンチヒッターとして起用された元OLの清水ひとみが人気を博し、雑誌やスポーツ紙にも大きくとりあげられ、また評論家、作家、コピーライターなどの紹介によって一般のマスコミでも話題となり、“オナニー・クイーン”清水を中心としたアイドル路線は全盛となる。
1986(昭和61)年清水ひとみはストリップを引退、NHK連続ドラマ「青春家族」、NHK大河ドラマ「秀吉」、五社英雄監督「陽炎」に出演するなど女優としての道を歩む。
道頓堀劇場は、清水ひとみや影山莉菜、美加マドカなどいわゆるアイドル・ストリッパーや「白日夢」に主演した“本番女優”愛染恭子のストリップショーのほか、杉兵助、レオナルド熊、ゆーとぴあ、コント山口君と竹田君、コント赤信号(渡辺正行・小宮孝泰・ラサール石井)、中村有志(当時:中村ゆうじ)、ダチョウ倶楽部の肥後克広、楠美津香などのコメディアンも輩出し、お笑いの分野にも大きく貢献をしている。
1995(平成7)年12月30日、地主が土地を売却するため立ち退きを要求され閉館。最終日は清水ひとみが7年ぶりに舞台にたち、半円型の舞台を囲んだ200人を超えるファンから拍手が沸き起こったという。1996年6月に亡くなった杉兵助とコント赤信号もラスト公演に出演した。
その後、1999(平成11)年2月札幌ススキノで「札幌道頓堀劇場」をオープン(清水ひとみ社長)。2001(平成13)年6月、渋谷の道頓堀劇場も劇場の親会社がビルを丸ごと買い取り、以前と同じ場所で再開された。以前は地下の30坪だけだった劇場を総工費1億円をかけて改装し、1階を入り口にしカフェや女性用トイレを作った。こけら落とし公演「ザ・キャット」は、ミュージカル「キャッツ」を上演している劇団四季が不正競争防止法に基づく名称使用禁止などを求める仮処分申請を東京地裁に起こし話題になった。
1996年2月公開の映画「でべそ」(望月六郎監督)は、支配人・矢野浩祐氏の著書「俺の『道頓堀劇場』物語」が原作。社長役に片岡鶴太郎、川上麻衣子がストリッパーに扮し“天狗ショー”シーンを披露した。清水ひとみもダンサー役で出演している。
▼参考資料 矢野浩祐「俺の『道頓堀劇場』物語」ライトプレス出版社 1991.11.1 田中聡「人物探訪 地図から消えた東京遺産」祥伝社黄金文庫 2000.2.25 日刊スポーツ「愛染恭子 最後のストリップショー、渋谷・道頓堀劇場でスタート」(1994.07.22) 日刊スポーツ「川上麻衣子 ストリッパー役の映画『でべそ』でセクシーショット」(1995.12.12) 産経新聞「渋谷の名所 道頓堀劇場今月で幕 『ヌード』と『お笑い』の25年」(1995.12.16) 読売新聞「東京・渋谷の道頓堀劇場、今月で閉幕 “幕間コント”客にこびず」(1995.12.20) 産経新聞「ストリップ殿堂『道頓堀劇場』25年に幕 渋谷」(1995.12.31) 日刊スポーツ「杉兵助さん 脳こうそくのため死去、コント赤信号らの育ての親」(1996.06.17) 産経新聞「ストリップの殿堂復活 『道頓堀劇場』 東京・渋谷」(2001.05.19) スポーツ報知「清水ひとみ ストリップ劇場『道頓堀劇場』6年ぶりに渋谷に復活」(2001.05.31) ZAKZAK「“キャッツ似ストリップ”訴えられる!」(2001.06.12) ZAKZAK「渋谷・道劇、今度は巨乳で客寄せ」(2001.06.13) スポニチアネックス「清水ひとみ 東京地裁で審問」(2001.06.16) 産経新聞「【笑芸繁盛】コント 楠美津香 演芸・演劇の“枠”超えて」(2001.09.18) 渋谷道頓堀劇場 |