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2003年2月

2003.02.04

空襲

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 東京の空襲は昭和19年(1944)11月から本格化し、渋谷の中心地域も昭和20年(1945)4月15日、5月24日、25日に被害を受けている。各日の被害状況は「新修 渋谷区史」によれば以下のとおりである。

昭和20年(1945)4月15日
15日22時3分関東地方に空襲警報発令。16日1時10分解除。B29が200機来襲。 23時40分頃円山町73に友軍機1機墜落、24棟21世帯が罹災、人的被害なし。

昭和20年(1945)5月24日
空襲警報1時36分発令、3時50分解除。B29が250機来襲。濃密な焼夷弾投下で広範囲に被害。
渋谷の中心地域では下通3・4丁目(道玄坂沿い)、北谷町(神南1丁目)、円山町にわたった。渋谷区全域の全焼家屋8、855戸、死者20名、重傷者240名、罹災者31、557名。

昭和20年(1945)5月25日
22時22分空襲警報発令、26日1時解除。B29二百数十機来襲。
大和田町(道玄坂1丁目)、円山町、栄通1・2丁目(文化村通り沿い)、宇田川町が被災。
渋谷区内で死者900名、重軽傷3、860名。全焼家屋28、615戸、罹災者116、377名。

 5月25日直後の渋谷の写真を見ると、焼野原の中に東横デパートや百軒店の渋谷キネマ、道玄坂の東横映画劇場(現渋東シネタワー)などがぽつんぽつんと残されている。

 この両日の空襲の様子を当時四谷に住んでいた内田百閒と、空襲の翌日に目黒から渋谷に出てきた写真家の石川光陽が日記に記している。

「五月二十四日木曜日十二夜。昨夜は十時半就眠す。午前一時五分警戒警報にて目醒めたり。南方洋上に数目標ありと云ふ。身支度をして、そのつもりで居る。一時三十五分空襲警報鳴る。忽ち南の空が赤くなつた。この間内大した警報もなく余りこはい目に会ってゐないのでそんな筈はないと思ひながら安きを貪つてゐると何となく胸がつかへた様な気がした。今夜の空襲にて溜飲が下がつた。来襲敵機の数は凡そ二百五十なりし由にて、品川荏原は一円、その他渋谷目黒に相当被害があつたらしいが四谷塩町左門町の方面を除き余り近い所に火の手は無かつた様だが、牛込小石川の方角も明かるく随分広い範囲が焼けたらしい。」(『東京焼盡』)

「5月26日 土曜日 曇小雨後晴
東横電車不通なので自転車で警視庁へ出勤、渋谷に出て驚いた。渋谷は殆ど焼野原となり、東横デパートも焼けて、宮益坂から青山1丁目まで両側は焦土と化し、死体が道路にごろごろ転がっていて、その中を多くの人が往来している。」(『東京大空襲の全記録』)

 「昭和二十年東京地図」によれば、円山花街は円山坂上交番裏の一角で七、八件の待合・飲食店が被災をまぬかれ、六月一日から営業を再開していたという。

▼参考資料
石川光陽著・写真 森田写真事務所編「グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録」岩波書店 1992.3.10
内田百閒「東京焼盡」中公文庫 1978.8.10
西井一夫・平嶋彰彦「昭和二十年東京地図」筑摩書房 1986.8.15
中林啓治「記憶の中の街 渋谷」河出書房新社 2001.9.20
渋谷区「新修 渋谷区史」1966.2.28

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