50年代の渋谷三角地帯(2)
ここではこの一画を下の6つの部分に分け、火災保険特殊地図(火保図)に記された1軒1軒を眺めることで、当時の特色、現在との違いを挙げていく。
【1】三角地帯の先端、109の入口付近に「三丸(みつまる)洋品店」があった。目立つ位置にあるため、この一帯を写した古い写真やフィルムによく写っている。三丸は現在でも109の1Fに店舗があり、「MITSUMARUと渋谷の100年」(三丸興産株式会社)では同社と渋谷の歴史についてまとめている。
【2】すでに玉久が店を出している。玉久は109建設時も立ち退かず、109のビルの壁面は長らくこの部分が凹んだ形になっていたが、2002年現玉久ビルに建て替えられた。
【3】旧丸国マーケットの奥には闇市から発展したマーケットによく見られる共同トイレが。
【4】道玄坂側には「みはとや靴店」が。現在文化通りや109、しぶちかにあるMIHATOか。
【1】2008年ヤマダ電機LABI渋谷が開業するまでこの場所にあった美美薬店が「美美クスリヤ」と表示されている。
【2】隣にはこれも現存する「くじら屋」が。
【3】「美美建設」「美美とんかつ」などの名が見られる。美美薬店はかつて手広く商売を手がけていたようだ。
【4】 一帯で最も大きい「キリンビアホール」。
【5】キリンビアホール裏に建物のない一画が。火保図には用途が書かれてない。当時の写真を見るとこの位置に高い煙突が立っており、ゴミの収集・焼却場だったのだろうか。
【6】中華料理店「麗邦(?)」。火保図では二文字目がつぶれており、「邦」とも「郷」の略字とも見える。「郷」とすれば現存する台湾料理店の「麗郷」か。
【7】中華料理店「〓々(ミンミン、〓は王へんに民)」。この一帯の恋文横丁は餃子発祥の地で、この「ミンミン」が最初にこの地に建った餃子屋という説がある。「東京現代遺跡発掘の旅」には美美薬店の店主藤澤臣明さんへのインタビューが掲載されているが、以下そこから引用する。
「恋文横丁は、戦争で中国から引き揚げてきた人の集まりでした。…(中略)…モデルになった菅谷さん(恋文横丁の名の由来になった代筆屋の店主)にスポットがあたりましたが、恋文横丁の本当の主人公はギョーザの店を最初に出した「ミンミン」のご主人、高橋通博さんとその奥さんの陸〓〓(糸へんに温のつくり、及び王へんに民)さんじゃないかと思います。」…(中略)…「カウンター越しに目の前で作る、スタンド式のスタイルはこの店が最初だったんですよ。私も『カッパ大王』という店を出しましたが、36軒のうち11軒がギョーザ屋でした」 |
「ミンミン」の左上に見える「カッパ」がその「カッパ大王」だろうか。美美薬店は餃子にまで手を出していたのだ。
【8】ロシア料理店「サモワール」。その後しばらく東急本店から円山町へ上る坂沿いにあったが、現在は世田谷区池尻に移転している。
■旧フクヤデパート界隈、のちに緑屋を経て現在のザ・プライムとなる付近。キリンビヤホールへ道玄坂側から入る道がついている。火保図が正確だとすれば、図上の細い通路は1メートル未満だ。
【1】現存する富士屋酒店。
【2】1997年まで営業していたフレッシュマンベーカリー。建物は2003年時点で現存。現在はヤマダ電機LABI渋谷の裏口になっている。
【3】恋文横丁の一画に事務所が。
【1】道玄坂小路沿いには鉄工場や材木店が。
【2】 恋文横丁の名の由来となった代筆屋。
【1】メリケン横丁と呼ばれた一画には多くの古着屋があった。
【2】今となってはほとんど見かけないブロマイドの店。
(2019.5.4追記)
東京都江戸東京博物館調査報告書第2集「常設展示制作に伴う調査報告2(大型模型2) ヤミ市模型の調査と展示」東京都江戸東京博物館 1994.10
伊東悦代「散歩の達人ブックス 大人の自由時間『東京現代遺跡発掘の旅』」交通新聞社 2002.8