« リキ・パレス | トップページ | 消えた地名「長者丸」の研究(2) »

2003.09.01

消えた地名「長者丸」の研究(1)

■長者丸との出会い

 その構造物はいつも気になっていた。大学へ向かう道すがら、山手線の目黒駅の手前で窓から見える低い塔。あの頃そこへ足を伸ばしていれば、この街のことは20年も前に知っていたのに、と思う。
 ある日目黒で所用を済ませた私は、例の塔まで足を伸ばしてみようと思い立った。目黒から恵比寿へ向かって右側、山手線沿いのあたりである。
 目黒駅から目黒通りを渡り、細い道を入る。しばらく行くと次第に思わぬ風景が広がり戸惑った。基本的に住宅街なのだが、住宅が妙に立派なのだ。現在タウンハウスになっている一画も、かつては広大な一つの敷地だったことを伺わせる。このあたりに高級住宅街があったか? やがて街のそこここに「長者丸」という表示を見つけ、この一帯が長者丸という地名だということを知った。
 結局謎の塔の正体は高速目黒線の換気塔だったのだが、思いがけない長者丸との出会いに、塔のことなど既にどうでもよくなっていた。長者丸とはどういう街なのか。なぜこんなに大きな邸宅が多いのか。

■長者丸の街並み

Image_16
 一旦長者丸の現在について説明しよう。

 長者丸はJR山手線目黒・恵比寿間の東側、高速目黒線との間に挟まれた区域である。北は小さな谷をはさんで恵比寿ガーデンプレイスに、南は現在大規模な住宅開発が行われている元国立予防衛生研究所の敷地をはさんで目黒通りに隣接している。
 長者丸の現在の住居表示は品川区上大崎二丁目。大崎という広域にわたる地名をつけられ、さらに「上」という冠詞をつけられたために街の性格が地名からは全く伺えない。
 また西を山手線の深い掘割に、東は高速目黒線とその裏の自然教育園の広大な森に囲まれ、周囲の地域から隔てられている。さらに地域内には幹線道路が走っておらず、長者丸自体に用事がない限り、余人はこの地を訪れないような構造になっている。
 長者丸という地名はこの一帯ではまだ現役で、町会の名前やマンションの名前に使われている。マンションの名前としては非常に験の良い地名だからだろう。不動産関係者の間でも長者丸の名前は知られているようである。
Image_16
【住宅地】大邸宅が連なる
Image1_12
【交番】昭和5年の地図に既に掲載されている。
Image2_10
【白金桟道橋】大正15年建設。古レールを利用した人道橋。
Image3_7
【長者丸踏切】珍しい車両が撮影できるなど余人には伺い知れぬ事情で鉄道マニアの間では人気があるという踏切。
Image4_6
【謎の塔】山手線の窓から見え気になっていた塔は、教会でも立体駐車場でもなく、高速道路の排気塔であった。

■長者丸という地名
 長者丸を知った私は文献でその成り立ちについて調べ始めた。青山にも長者丸という地名があり、そちらの記述が大半を占めたが、品川区の資料で問題の長者丸についての記述を見つけることができた。

 長者丸は、江戸時代に今里村に属しており、明治二年(1869)に白金村に合併された地域である。明治二十二年(1889)に上大崎村に合併され、品川区の一部となったものである。
 「文政町方書上」によると、応永年中(1394〜1427)白金に移住し、白金長者と呼ばれるようになった柳下上総之助の子孫が、元和年間(1615〜1623)に村名主を勤めることになって白金台町に転居し、その旧居住地を字長者ヶ丸と呼ぶようになったという。
 「長者丸」の由来は、白金長者の「長者」と、中近世の城郭(館)を意味する「丸」から名付けられたものであろう。
 現在の上大崎二丁目一〜十番にかけての一帯が「長者丸」と呼ばれていた地域である。(品川区教育委員会 品川区史料(十三)「品川の地名」)

 長者丸の名は400年前長者が住んでいたことに由来していたわけである。地名の由来についてはわかった。しかし現在の高級住宅街はいつ、どのように形成されたのだろうか?(その2へつづく) 【吉】

9月 1, 2003 at 01:22 午後 ■品川区 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 消えた地名「長者丸」の研究(1):

» 白金分水(2)長者丸と都電 トラックバック 東京の水 2005 Revisited
流路は現在の渋谷区と品川区の境界に沿って流れていました。白金自然教育園の北東側、品川区上大崎2丁目一帯は今でも旧町名の「長者丸」で呼ばれ、高級マンションが立ち並んでいます。 この地名は南北朝時代に「白金長者」と呼ばれる裕福な豪族の屋敷があったことに由来する... 続きを読む

受信: 2005/09/19 22:23:10

コメント

この記事へのコメントは終了しました。