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2003年9月

2003.09.01

消えた地名「長者丸」の研究(3)

■長者丸の住人

 それでは長者丸の住人はどんな人々だったのか。石碑の裏面に名を刻まれた36名について、人名辞典等で調査をしてみた。同姓同名の可能性を残しているが、以下の12名が明らかになった。

五十嵐秀助:工学博士
大谷 登 :日本郵船社長
太田信義 :太田胃散二代目
辰巳 一 :海軍造船大佐
田中次郎 :官吏、実業家
竹内 昇 :山崎帝国堂社長;極東通商社長
成田榮信 :衆議院議員
間崎道知 :寺田寅彦の中学以来の友人。東大政治科卒。
福原信三 :資生堂の二代目。写真家。
福澤大四郎:福澤諭吉の子
湯河元臣 :管船局長
鈴木主計 :胃腸病院長

 もしこれらが当人であったとすれば、錚々たる面々である。
 この中で福原信三は間違いなくその人で、資生堂のサイト(「福原信三 路草 写真展」)には彼が長者丸近辺を写した写真も掲載されている。

■長者丸はどんな街だったのか

 ここに至って長者丸の成立の経緯がおおまかに見えてきた。昭和初期、伝統芸術に理解を示す大呉服商が、当時高まってきた郊外住宅への需要に応え、大区画の住宅地を開発した。そこには著名な実業家や官僚、議員などステータスの高い人々が集まり、一大高級住宅街が形成されたのだ。
 50年以上前の長者丸の様子を写真家の笹本恒子氏が描写している。目黒三田に住んでいた彼女は、目黒駅への道すがら長者丸をよく通っていたとのことだ。

 当時は両側に大きな屋敷が建ち並び、閉ざされた門の奥からは、足音を聞いてかウォーッ、ウォーッという犬の声がする。息をつめて通り過ぎ、約10分の目黒駅に着く。
 (中略)それから半世紀過ぎた現在は、かなり様相が変化していた。絶対分譲せぬと豪語していた地主も、代替わりして少しずつ手放したのか、マンションも建ち、和風より洋風の建物が多くなっている。(財団法人ファッション協会「各界著名人が選んだ私の好きな東京」2002.12)

 いつ頃からこの一帯が吉田家のものだったのか、また設立から現在にかけて敷地が次第に細分化されていく様子も調査してみたいところだが、今回はここまで。【吉】

消えた地名「長者丸」の研究(2)

■江戸・明治・昭和初期の長者丸

 住宅地としての成立時期を調べるため、古地図にあたってみた。小さな地域なので現在の区分地図クラスの縮尺でないと情報が得られない。

江戸期:安政三年(1856)・白金村の一画に「長者丸」という表示がある。一帯は農地。 ・元国立予防衛生研究所の一帯は堀出雲守の下屋敷。 文献:丸善「江戸・東京重ね地図」
明治時代:明治44年(1911)・一帯はまだ農地で ・かつての大名屋敷は陸軍衛生材料廠になっている。 文献:東京逓信管理局編纂「東京市近傍郡部町村番地界入地圖」
昭和初期:昭和5年(1930)・一帯は区画整理され、○○邸という表示がいくつか見え、現在の位置に駐在所もある。 ・恵比寿ガーデンプレイスとの間の谷には都電の「エビス長者丸」という停車場が。(恵比寿長者丸線については「09 Photo-Rail」の「路面電車があった街へ-東京都電」参照) 文献:番地界入 東京府荏原郡大崎町全図

 明治から昭和初期にかけて、一帯は一気に住宅地として開発されたようである。
 ここで思い出されるのが、大正末期から昭和初期にかけて集中的に行われた東京郊外の住宅開発だ。現東急電鉄の田園都市株式会社が田園調布を開発したのを始め、郊外が住宅地として開発され、関東大震災が郊外への人口流出に拍車をかけた。長者丸もそうした街の一つだったのだろうか。

■石碑の発見

 最初に長者丸を訪れて以来、資料の調査を進める一方、何度か現地を訪れていた。そうしたある日、現地で一つの石碑と、文を刻んだ金属柱を見つけた。そこにはこう書いてあった。

【表】
吉田翁碑
上大崎長者丸ハ 白金御料地ノ緑樹ヲ以テ市塵ヲ隔テ 地爽ニ氣清ク郭外ノ名區タリ
所有者吉田彌一郎氏 曩(さき)ニ荒ヲ開キ路ヲ通シ 住宅地トシテ提供セシヨリ
相尋キテ邸第ノ築造アリ 林叢一變シテ瀟洒タル邑里ヲ成スニ至ル
爾来居住者ハ 氏ヲ中心トシテ隣保相親ムコト一族ノ如ク
其自治ノ美風ハ人ノ傅稱スル所ト成レリ
大正十三年一月氏ハ長逝シタレトモ 令嗣幸三郎君後ヲ承ケ
其遺業永く渝(か)ハルコトナシ
我等同人ハ 間雅ノ境ニ安住ノ地ヲ得 氏ノ厚情ト温容トニ對シ
追懐ノ念止ムコト能ハス
茲(ここ)ニ五周年ノ忌辰ニ際シ 胥(みな)謀リテ碑ヲ建テ
其恩誼ヲ後世ニ記念スルモノナリ
昭和三戊辰年三月
【裏】
五十嵐秀助 井上良雄 石川彌太郎 二條泰子 大谷登 太田信義
小栗八郎 加藤丑之助 片岡隆起 神野清五郎 横山信毅 辰巳一
田中次郎 武内常太郎 竹内昇 成田榮信 内田好之輔 野村素一
山口宏澤 松本秀彦 間崎道知 福原信三 福澤大四郎 福島行信
小堀治三郎 江藤捨三 寺原董尚 鮫島宗平 湯河元臣 宮井誠吉
宮之原軍吉 下岡忠一 平井正憲 森作太郎 関根要八 鈴木主計
(英文)吉田彌一郎氏(1857-1924)記念碑
呉服商。1928年に36名の借地者で設立された長者丸住宅街の開発者。
隣の金属柱には彌一郎の相続人にして邦楽と日本美術の後援者、吉田幸三郎(1887-1980)について記してある。

 これによって、長者丸について以下のことが一気に明らかになった。

 ・長者丸は昭和3年(1928)、呉服商吉田彌一郎によって開発された。
 ・当初の借地人は裏面に記された36名。

 跡継ぎの吉田幸三郎が邦楽と日本美術の後援者とあるが、吉田彌一郎自身も日本画家の速水御舟を娘婿に迎えるなど伝統芸能に理解のある、また彼らを援助するだけの財力をもった一族だったようである。(その3につづく)【吉】

消えた地名「長者丸」の研究(1)

■長者丸との出会い

 その構造物はいつも気になっていた。大学へ向かう道すがら、山手線の目黒駅の手前で窓から見える低い塔。あの頃そこへ足を伸ばしていれば、この街のことは20年も前に知っていたのに、と思う。
 ある日目黒で所用を済ませた私は、例の塔まで足を伸ばしてみようと思い立った。目黒から恵比寿へ向かって右側、山手線沿いのあたりである。
 目黒駅から目黒通りを渡り、細い道を入る。しばらく行くと次第に思わぬ風景が広がり戸惑った。基本的に住宅街なのだが、住宅が妙に立派なのだ。現在タウンハウスになっている一画も、かつては広大な一つの敷地だったことを伺わせる。このあたりに高級住宅街があったか? やがて街のそこここに「長者丸」という表示を見つけ、この一帯が長者丸という地名だということを知った。
 結局謎の塔の正体は高速目黒線の換気塔だったのだが、思いがけない長者丸との出会いに、塔のことなど既にどうでもよくなっていた。長者丸とはどういう街なのか。なぜこんなに大きな邸宅が多いのか。

■長者丸の街並み

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 一旦長者丸の現在について説明しよう。

 長者丸はJR山手線目黒・恵比寿間の東側、高速目黒線との間に挟まれた区域である。北は小さな谷をはさんで恵比寿ガーデンプレイスに、南は現在大規模な住宅開発が行われている元国立予防衛生研究所の敷地をはさんで目黒通りに隣接している。
 長者丸の現在の住居表示は品川区上大崎二丁目。大崎という広域にわたる地名をつけられ、さらに「上」という冠詞をつけられたために街の性格が地名からは全く伺えない。
 また西を山手線の深い掘割に、東は高速目黒線とその裏の自然教育園の広大な森に囲まれ、周囲の地域から隔てられている。さらに地域内には幹線道路が走っておらず、長者丸自体に用事がない限り、余人はこの地を訪れないような構造になっている。
 長者丸という地名はこの一帯ではまだ現役で、町会の名前やマンションの名前に使われている。マンションの名前としては非常に験の良い地名だからだろう。不動産関係者の間でも長者丸の名前は知られているようである。
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【住宅地】大邸宅が連なる
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【交番】昭和5年の地図に既に掲載されている。
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【白金桟道橋】大正15年建設。古レールを利用した人道橋。
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【長者丸踏切】珍しい車両が撮影できるなど余人には伺い知れぬ事情で鉄道マニアの間では人気があるという踏切。
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【謎の塔】山手線の窓から見え気になっていた塔は、教会でも立体駐車場でもなく、高速道路の排気塔であった。

■長者丸という地名
 長者丸を知った私は文献でその成り立ちについて調べ始めた。青山にも長者丸という地名があり、そちらの記述が大半を占めたが、品川区の資料で問題の長者丸についての記述を見つけることができた。

 長者丸は、江戸時代に今里村に属しており、明治二年(1869)に白金村に合併された地域である。明治二十二年(1889)に上大崎村に合併され、品川区の一部となったものである。
 「文政町方書上」によると、応永年中(1394〜1427)白金に移住し、白金長者と呼ばれるようになった柳下上総之助の子孫が、元和年間(1615〜1623)に村名主を勤めることになって白金台町に転居し、その旧居住地を字長者ヶ丸と呼ぶようになったという。
 「長者丸」の由来は、白金長者の「長者」と、中近世の城郭(館)を意味する「丸」から名付けられたものであろう。
 現在の上大崎二丁目一〜十番にかけての一帯が「長者丸」と呼ばれていた地域である。(品川区教育委員会 品川区史料(十三)「品川の地名」)

 長者丸の名は400年前長者が住んでいたことに由来していたわけである。地名の由来についてはわかった。しかし現在の高級住宅街はいつ、どのように形成されたのだろうか?(その2へつづく) 【吉】

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