消えた地名「長者丸」の研究(3)
■長者丸の住人
それでは長者丸の住人はどんな人々だったのか。石碑の裏面に名を刻まれた36名について、人名辞典等で調査をしてみた。同姓同名の可能性を残しているが、以下の12名が明らかになった。
五十嵐秀助:工学博士 大谷 登 :日本郵船社長 太田信義 :太田胃散二代目 辰巳 一 :海軍造船大佐 田中次郎 :官吏、実業家 竹内 昇 :山崎帝国堂社長;極東通商社長 成田榮信 :衆議院議員 間崎道知 :寺田寅彦の中学以来の友人。東大政治科卒。 福原信三 :資生堂の二代目。写真家。 福澤大四郎:福澤諭吉の子 湯河元臣 :管船局長 鈴木主計 :胃腸病院長 |
もしこれらが当人であったとすれば、錚々たる面々である。
この中で福原信三は間違いなくその人で、資生堂のサイト(「福原信三 路草 写真展」)には彼が長者丸近辺を写した写真も掲載されている。
■長者丸はどんな街だったのか
ここに至って長者丸の成立の経緯がおおまかに見えてきた。昭和初期、伝統芸術に理解を示す大呉服商が、当時高まってきた郊外住宅への需要に応え、大区画の住宅地を開発した。そこには著名な実業家や官僚、議員などステータスの高い人々が集まり、一大高級住宅街が形成されたのだ。
50年以上前の長者丸の様子を写真家の笹本恒子氏が描写している。目黒三田に住んでいた彼女は、目黒駅への道すがら長者丸をよく通っていたとのことだ。
当時は両側に大きな屋敷が建ち並び、閉ざされた門の奥からは、足音を聞いてかウォーッ、ウォーッという犬の声がする。息をつめて通り過ぎ、約10分の目黒駅に着く。
(中略)それから半世紀過ぎた現在は、かなり様相が変化していた。絶対分譲せぬと豪語していた地主も、代替わりして少しずつ手放したのか、マンションも建ち、和風より洋風の建物が多くなっている。(財団法人ファッション協会「各界著名人が選んだ私の好きな東京」2002.12)
いつ頃からこの一帯が吉田家のものだったのか、また設立から現在にかけて敷地が次第に細分化されていく様子も調査してみたいところだが、今回はここまで。【吉】