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2012年1月

2012.01.28

さくら新道(1)

 さくら新道は北区王子一丁目14〜18、JR王子駅北側、飛鳥山公園とJR京浜東北線の間の道沿いにのびる戦後まもなくできた木造長屋の飲食店街だ。

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<狭い、暗い、古い>
 飛鳥山は地形上日暮里・上野へと続く上野台の一部だ。さくら新道はいわば上野台の山下に位置している。前面の道は幅約3m。山の北東側に3mの間隔で接しているということは日がほとんど当たらないということだ。飛鳥山は徳川吉宗が江戸郊外の行楽地として整備して以来桜の名所として知られるが、山の北側にあたるここからはさくら新道という名前にもかかわらず満開の桜を楽しめることはないだろう。狭い、暗い、古いという商店立地上からみればネガティブな要因ばかりの飲食街だが、それが却って一部の裏町を愛好する人々をひきつけている。
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<はずれくじ>
 さくら新道と駅をはさんで反対側、駅前広場があり栄えている側に柳小路という飲食店街がある。この場所はもと道沿い延長約30mに許可出店数11店舗が並ぶ闇市だった。。この場所を区画整理で再整備する際、抽選にもれた店舗が現在の土地に移るよう指示されたという。この土地は一部資料には国有地とあるが、住民へのヒアリングでは都有地ということだ。登記によればJR東日本所有の鉄道用地だ。
 繁華な駅前から駅裏へ。前面の道は現在では本郷通りの一里塚交差点まで続いているが当時は行き止まりで舗装すらされていなかったという。駅への行き帰りにふらりと立ち寄れる飲食街ではなく、この場所目当ての客しかやってこないわけだ。この地に移動してきた人々にとっては大変なはずれくじであったに違いない。
 一方当時王子に工場があった宝酒造が店舗をサポートする場面もあったという。
 この場所の道筋を地図で確認する。1946年の「東京戦災白地図」には水路が記されているだけで道はまだできていない。1972年、1985年の住宅地図には道が記載されているが途中で途切れているように見える。1995年の住宅地図でようやく明確に本郷通りまで道が表現されている。たしかにここは「新道」なのだ。
 
<木造二階建三棟>
 建物は木造二階建の長屋が三棟、道と並行している。二階は総じて増築され街路側に張り出しており、一部線路側に三階を増築した店もある。内階段はなく二階へは道路側から階段を上ることになる。
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■新道入口より。木造二階建、張り出した二階

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■新道奥より

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■新道中程から入口方面を見る

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■夜間の様子1

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■夜間の様子2

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■夜間の様子3

 棟と棟の間には水道がある。共同の水場として使われていたのだろう。トイレは二棟目と三棟目の間にタンクを埋めてつくったという。現在は共同便所はなく、後に述べる事情で建物の内部を確認することができたが、便所も風呂も各戸にあったようだ。
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■棟間の水場1

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■棟間の水場2

 さくら新道の建物は王子駅のホームから目立つ。王子駅の利用者なら必ずその建物を知っているはずだ。二階の上に大きな板状の構造がホーム側を向くように立っている。これはもともと競輪・競艇用の看板としてつくったものだという。しかし東京オリンピックを迎えるにあたって東京都から景観上の指導があり、看板として使われることはなかったという。
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■王子駅ホームから。使われることのなかった看板

<営業中は6軒>
 建物は19の区画に分かれており、桜新道新生会という商店会をつくっている。そのうち、2011年末で営業していたのは6軒。店舗名が判読できる1985年以降の住宅地図から店舗の変遷をたどると、現在空地になっている新道入口のあたりには、1985年頃までの住宅地図ではさらに3件店舗等があったのが確認できる。また2005年から2011年の間に、かなりの数の店舗が廃業し個人住宅となっていた。
 営業中の6軒をみると長く営業していた店舗が多い。「スナックまちこ」は、店主によれば開業して45年になるという(2012年現在)。(営業していた店が6軒というのは残った店の店主による。住宅地図と写真で営業を確認した店舗を合わせると9軒になるが、同じ商店会に属していた店主の方が正確だろう)
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■住宅地図から読み取った店舗の変遷

<ロケ地としてのさくら新道>
 独特の雰囲気からさくら新道はロケ地としても使われている。前述のスナックまちこは2005年日本テレビ系ドラマ「女王の教室」の「スナックきょうこ」として撮影に使われた。またさくら新道は2004 松竹、ザナドゥー配給映画「血と骨」でもロケ地として使われたという。またさくら新道が2004 松竹、ザナドゥー配給映画「血と骨」でロケ地として使われたという記述が「散歩の達人」2007年4月号にあるが、DVDではそれらしき街並は確認できなかった。また同映画のパンフレットにも記述はなかった。

<聖徳院の謎>
 なお新道の入口に「聖徳院」という寺院がある。飛び抜けて奇妙というわけではないが、一種理解しがたいつくりの寺だ。これについてはすでにまとめてあるサイトに譲ろう。(珍寺大道場)

関連記事:

「さくら新道(2)」:さくら新道の火災
「さくら新道(3):さくら新道の終焉」

 

参考資料
「東京人」2000.10 都市出版
「散歩の達人」2007.4 交通新聞社
「王子」1930 大日本帝国陸地測量部
「東京戦災白地図 王子」1946 戦災復興院
住宅地図「北区」1972 公共施設地図航空
住宅地区「北区」1985 ゼンリン
住宅地区「北区」1995 ゼンリン
住宅地区「北区」2005 ゼンリン
住宅地区「北区」2011 ゼンリン
「ヤミ市模型の調査と展示」1994.10 東京都江戸東京博物館
朝日新聞
毎日新聞

さくら新道(2):さくら新道の火災

<大火災>
 2012年1月21日午前5時50分、さくら新道の一角から出火、火事は5時間にわたり3棟のうち奥の2棟約600㎡を全焼した。4名がけがをし病院に搬送され、うち74歳の女性が意識不明の重体。この火災で鉄道の送電線や地下のケーブルが断線、JR4路線と都電荒川線が最長7時間運転を見合わせた。原因は火元の住宅に住む女性が使用していた電気ストーブの火が布団に引火したもの。

<火災から6日後>
 火災から6日後の2012年1月27日に現場へいった。現場はまだ焼け焦げ水に濡れた家財道具が道路を埋めるように投げ出されたままだった。日陰であるため、焼跡には4日前に降った雪がまだ残っていた。
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■道路側から1

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■道路側から2

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■道路側から3

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■道路側から4

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■道路側から5

 一番奥の棟は文字通り全焼。真ん中の棟は道路側に一部焼けていない部分を残すのみ。二階の屋根は落ち、炭化した柱と梁がのこるばかりだった。1階店舗内は全て炭化。床は落ち地面がむきだしになり、真っ黒な戸棚には真っ黒な食器が残されていた。
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■二階の状況

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■焼け落ちた店内。床が焼け落ち土が露出している。

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■店内から道路側を見る。

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■炭化した棚。

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■真っ黒な食器。

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■風呂場。溶けた浴槽。

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■便所。

 裏の線路側にまわると堤の上から全体が見渡せた。裏は表以上に激しく焼け、壁は全く残っていない。地面は焦げた柱や梁、屋根に乗っていたトタンの波板が積み上がっている。ホームに向かって建っていた「さくら新道飲食街」の看板がフレームだけ残して立っていた。
 こちら側にまわって初めてわかったが、堤の上にはホーム側に向かって「交通安全地蔵尊」が建てられていた。JRが管理しているらしい。
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■線路側より全景。

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■線路側より全景。看板のフレームが残っている。

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■交通安全地蔵尊。背後に焼け跡が広がる。

 道路に投げ出された荷物からはさくら新道の人々の生活の一端がうかがえた。誂えた着物、幼児用の本、扇風機やテレビなどの電化製品、カラオケ本、アルバム…。現場には地元民らしき人々が時折訪れては目の前に広がる光景に驚き、帰っていった。
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■現場に残された物品。

<さくら新道の今後>
 夜になるのを待ってもう一度さくら新道を訪れた。2軒だけ残っている店が営業してはいまいか。「まちこ」も「みよし」にも明かりが灯っていた。新道の入口側から電気や水道が引かれていたのだろう、2棟が焼け落ちてもこの棟の営業には支障はなかったようだ。
 店に入って話を聞いた。火災発生当時、小料理みよしの店主は店におり、火災を知りあわてて逃げたという。スナックまちこの店主は地区外の自宅におり、家族からの連絡で火災を知った。消火に時間がかかったのは、駅の反対側の柳小路から消火用水を引いてこなければならなかったからだという。本当だとすれば、さくら新道ができた当初の「はずれくじ」がここでも尾をひいていたことになる。重体になった女性は2階から飛び降りたのだという。
 さくら新道の土地は都有地、そこに借地権を設定してこの長屋が建てられたのだという。今でも都には地代を払っている。以前からさくら新道には都から立ち退きの話があり、10年ほど前に一度決裂した経緯があるという。都はこの土地を飛鳥山公園の一部として使用したいということらしい。
 借地して建てた建物は、地主の承諾なしには建て替えられない。立ち退きを求めていた以上都が再築を許すとは思えない。消失した2棟が今後建て替わることはないのだろう。残された1棟の今後も危うい。都内の交通に大きな影響を与えた今回の火災を都は重視し、ますます立ち退きを強く求めてくるのではないか。店主たちもそう語っていた。
 築後約60年、王子の一角に奇妙な魅力を添えてきたさくら新道。残された1棟の建物が今後いつまで存続できるのか。今後も気にかけていきたい。【吉】

関連記事:

「さくら新道(1)」
「さくら新道(3):さくら新道の終焉」

 

<参考資料>
「東京人」2000.10 都市出版
「散歩の達人」2007.4 交通新聞社
「王子」1930 大日本帝国陸地測量部
「東京戦災白地図 王子」1946 戦災復興院
住宅地図「北区」1972 公共施設地図航空
住宅地区「北区」1985 ゼンリン
住宅地区「北区」1995 ゼンリン
住宅地区「北区」2005 ゼンリン
住宅地区「北区」2011 ゼンリン
「ヤミ市模型の調査と展示」1994.10 東京都江戸東京博物館
朝日新聞
毎日新聞</font size>

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