若松町謎の私道
<塔博士の記念館>
新宿区若松町に「早稲田大学内藤多仲博士記念館」という建物がある。内藤多仲(1886〜1970)は構造設計を専門とする建築家で、歌舞伎座などの建物のほか名古屋テレビ塔、通天閣、東京タワーの構造設計に携わり、「耐震建築の父」「塔博士」と異名をとる人物。記念館は博士の自邸が没後早稲田大学に譲られ整備されたものだ。
問題の道はこの内藤多仲記念館の前にある。大江戸線若松河田駅から記念館に向かうと、大願寺の手前に大きな門構があり「N」と個人の表札が出ている。門柱の横には「私道に付き駐車お断り申し上げます 歩行者の方の通行は可能です 地主」という表示がでている。記念館に行くにはこの個人宅の門をくぐって私道を進まなければならない。
■N氏邸の門構
<大邸宅と大型犬>
道は中央に石が敷かれており、その両側は車の通行のためだろうか舗装がされている。幅約5〜6m、長さ約100m。奥に木が鬱蒼と繁る一角があるが、ここが門柱の表札にあるN氏の邸宅だ。つまりこの道はN氏邸への長い長いアプローチ路なのだ。
■門の方向を振り返る
■奥をみる。右手の建物は内藤多仲記念館の一部。
N氏邸の敷地は広く、建物は隣接する内藤多仲記念館と同時期の大正末期から昭和初期にかけて建てられたもののように見える大きな邸宅だ。高い鉄門扉の外から伺うと廃車然とした車が置いてあり人の気配も感じられなかったが、建物の陰から黒い大型犬が出てきて吠えかかられたのでどなたかお住まいなのだろう。よい番犬だ。
道はこの奥で曲がり余丁町小学校前の道につながり、通り抜けられるようになっている。
■N氏邸前
■余丁町小学校側の出口
<2つの謎>
この道について現場で感じた違和感を整理すると、2つに整理できる。
一つは私有地を自由に通らせるというN氏の懐の深さと、N氏邸から感じられる近付き難い閉鎖感とのギャップ。そしてもう一つはこの道のアプローチ路としての異様な長さ。N氏邸の敷地から余丁町小学校側へはすぐ出られるのに、なぜわざわざ長いアプローチをつけて大願寺側へ出ようとするのか。奥まった敷地から道路へ私道で繋がっているような敷地を「旗竿地」と呼ぶ。建物が建っている部分を旗、私道を旗竿に見立てた呼び名だが、N氏邸は竿の部分が異様に長い旗竿地だ。なぜこんな敷地の形ができたのか。
■位置関係。極端な旗竿地。
<敷地の変遷>
まず二つ目の疑問、長大な旗竿地ができた経緯について次のような仮説を考えてみた。もともとは内藤多仲記念館、大願寺もN氏の土地で、現在の表札がかかる門がその入口だったのではないか。内藤多仲記念館、大願寺へ土地が切り売りされていく過程で(内藤多仲邸の建設は1925年、大願寺の建立は1972年)、N氏がもとの入口にこだわった結果として、現在のような長いアプローチ路が残ったのではないか。
そこで過去の地図を調べることにした。幕末の1849年から1978年までの地図にあたった。
昭和12年(1937)にはすでに問題の道路ができており、N氏、内藤多仲の名前も見える。それ以前の地図では道が途中まで表示されていたり、全く表示されていなかったりと様々で、結論からいうと仮説のような経緯は確認できなかった。内藤多仲記念館、大願寺の土地がN氏所有の借地という可能性も考え登記も調べたが、それぞれ早稲田大学、大願寺の所有となっていた。
■敷地の変遷
尾張屋版 江戸切絵図 嘉永2年(1849)〜 |
道の表現なし。N氏邸、内藤多仲記念館、大願寺一帯は武家地。 「中根三八」「池尾友三郎」「細井小次郎」「横井■次郎」の表記あり。 |
参謀本部陸軍部測量局 迅速図 明治16年(1883) |
現在の本田多仲記念館のあたりまで道の表現あり。 内藤多仲記念館の位置に建物、大願寺の位置は林。N邸の位置は空白。 一帯は明治政府の「桑茶政策」のためか主に桑畑になっている。 |
「東京市十五区番地界入地図」 東京郵便局・東京逓信管理局 明治40年(1907) |
道の表現なし |
「火災保険特殊地図旧35区」 都市製図社 昭和12年(1937) |
道路あり。N氏邸の位置に建物、N氏の姓が記載されている。 内藤多仲記念館の位置に「内藤多仲」の名。 大願寺の位置に「奥保城・奥保夫」の名。 |
「東京区分詳細図」 日本統制地図株式会社 昭和16年(1941) |
道の表現なし |
「新宿区全図」 公共施設地図航空株式会社 昭和45年(1970) |
道路あり。N健治・小笠原忠幸、内藤多仲の名。 大願寺の位置に「山田三郎太」の名。 |
「新宿区」 日本住宅地図出版株式会社 昭和53年(1978) |
道路あり。N健治・小笠原忠幸の名。 内藤多仲邸は「早稲田大学耐震資料館」に。 大願寺が完成している。 |
<小笠原伯爵家との関係>
しかし敷地の変遷を調べる中で思いがけない手がかりを得た。昭和45年以降にN氏邸に名前がみられる「N健治・小笠原忠幸」の2人である。
調べてみると、小笠原忠幸氏は小笠原流礼法の三十二代宗家小笠原忠統(ただむね、1919〜1996)氏の兄であり、三十代宗家小笠原長幹(ながよし、1885〜1935)氏の次男だということがわかった。そしてN健治氏は小笠原忠幸氏の夫人、嘉代子氏の父だったのだ。若松河田駅の反対側には長幹氏の邸宅、小笠原伯爵邸がなお現存しレストランとして活用されている。
つまり、小笠原伯爵の次男が生家から少し離れた土地に家を構え、夫人やその父と住んでいた場所、それがN氏邸なのだ。表札の名前からすると、現在でもN健治氏のご子孫がお住まいなのだろう。
■小笠原伯爵邸
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<まとめ>
長いアプローチ路ができた過程は明らかにできなかったが、N氏邸が伯爵家とのつながりがあるいわゆる名家であることが明らかになった。そうしてみると、最初の疑問、自邸を外部から隔絶して守る行為と、名士として地元の利便のために敷地の一部を開放するという行為に、ある程度説明がついたのではないか。
あらためて門構の外からこの道を眺めると、かつてクラシックな自動車がこの門構をくぐり、長いアプローチ路を進んでいったであろう様子が脳裏に浮ぶのだった。【吉】
<参考資料>
内藤多仲博士記念館(旧自邸)見学会とトーク イベントレポート(INAX) 「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」人文社
「角川日本地名大辞典 13 東京都」角川書店
参謀本部陸軍部測量局 迅速図 東京北西部
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」人文社
「古地図・現代図で歩く昭和東京散歩」人文社
「新宿区全図」公共施設地図航空株式会社
「新宿区」日本住宅地図出版株式会社
「昭和新修華族家系大成 上巻」霞会館
小笠原流法ウェブサイト
小笠原伯爵邸