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2019年5月

2019.05.19

小石川:重層する段差の路地

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 小石川の「こんにゃく閻魔」で知られる源覚寺の裏、マンション小石川ヒルズそばから入り上富坂教会あたりへ抜ける路地がある。延長約100m、幅員約2m。歩いていると入り口を見落としてしまうほど目立たない路地だが、そこには他の場所では体験できない独特で豊かな空間が広がっているのだ。

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【①微細な高低差の階段】
 路地に入ってすぐの場所にある階段。階段というには段差が浅く、階段の左半分はまったく段差がない斜路になっている。右半分は建替えに伴い拡幅されたようにみえる。だとすればこの部分はかつて幅員1mもなかったのだろうか。
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【②段差が重層する路地】
 石貼りの階段、コンクリートの斜路、アスファルトの斜路が並行する路地。アスファルトの部分は建替えに伴い拡幅された部分で、2005年の来訪時道はもっと細かった。
 石貼りの階段は奥でコンクリートの階段と重層し、融合し、絶妙な形状をつくりだしている。最奥部に見える階段の上には新しいコンクリートの階段が重ねて造られ、通行が危ぶまれるほど細くなっている。素材と段差がなすコンポジションの妙。

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※2005年の状況


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■重層する段差 年代も素材も異なる階段が重なり、溶け合う。

【③木造平屋前の路地】
 さらに奥にいくと道は木造平屋トタン屋根の建物の庭先のような場所となる。道の真ん中には物干し台に洗濯物が干され植え込みがある。あたかも過去に迷い込んだようなこの一画には、規格化された公道にはない私道の魅力が溢れている。
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■庭先的空間の奥にはまた階段が

 地図上では並行する2本の線でしかない細い路地。都市の主要な動線から外れたその奥には、地図では表現しきれないディテールが織りなす魅力が集積していた。

2019.05.13

四谷荒木町(1):窪地の地形が生んだ坂とバーの街

【荒木町の概要】
 荒木町一帯は美濃国高須藩藩主松平義行の屋敷があった場所であり、屋敷内には「津の守の滝」のある「策(むち)の池」があった。
 明治時代には屋敷内の池や庭園が一般に開放され、荒木町は策の池を中心とした景勝地となり、付近には花街が発展した。津の守花柳界は昭和3年には芸妓屋が83件、芸妓も226名にのぼり、その後衰退をしたが現在の区立荒木公園あたりには見番(料亭・待合・芸妓屋の組合である三業組合の事務所)が昭和58年まで残っていたという。(四谷地区協議会 観光まちづくり実行委員会「四谷まち歩き手帖3下巻 甲州街道」より)

【四方を囲まれた窪地】
 荒木町は北を靖国通り、西を外苑東通り、南を新宿通り、東を津の守坂(つのかみさか)通りに囲まれている。中央の最も低い部分は標高約20mで、西、南、東を標高約30mの地形で囲まれた地形だ。また自然な地形か人工的に谷を堰き止めたものか、北側も標高が30m近くあるため、四方を囲まれた窪地となっている。

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(「東京地形図 on the Google Earth」gridscapes.netをもとに作成)

【津の守の滝、策の池】
 このような地形のため、津の守の滝が水源となりこの地に策の池が成立した。「五千分一東京図測量原図」(明治16〜17年頃)には130×40mほどの細長い池と直径40mほどの丸い池の2つの池が記載されている。池の周囲は樹木に覆われた斜面となっている。
 現在策の池は縮小し、津の守弁財天の中に8m四方ほどの池として残されている。「五千分一東京図測量原図」で判読できる池の範囲からは外れているが、より水源である津の守の滝に近い場所に残ったのだろう。
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(参謀本部陸軍部測量局 「五千分一東京図測量原図」をもとに作成)

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■現在の策の池と津の守弁財天

【策の池の周囲に形成された坂と階段の街】
 池が宅地化した結果、既存の市街地と池の底を結ぶ坂が形成された。荒木町の階段状の坂の位置と明治期の策の池の位置を重ね合わせると、みごとに池の周囲の斜面だった部分が現在の階段の位置と一致することがわかる。荒木町の階段坂の上の場所からは、かつては樹林越しに眼下に広い水面が広がっていたことだろう。
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■策の池と階段坂の位置関係

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■階段坂の上からの眺望。かつては樹木越しに水面が広がっていたことだろう。

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■階段坂① 策の池北端に位置する

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■階段坂② 策の池東端に位置する。中腹から左に小道が延び階段坂⑦へと続く。

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■階段坂③ 策の池南端に位置する緩やかな折れ曲がり坂

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■階段坂④ 策の池西端に位置する石畳の折れ曲がり坂

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■階段坂④下部

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■階段坂⑤ 策の池西端に位置する擁壁沿いの階段。

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■階段坂⑥

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■階段坂⑦ 策の池東側を等高線と並行して延びる小道の端部に位置する。

【花街の名残】
 かつて発展した花街の名残であろう、池の東側、南側にあたる柳新町通り、車力門通り沿いには今でもバー・スナック、居酒屋を中心とした飲食店が集中している。また表札に「常磐津駒太夫」と掲げた家があったり、策の池に面した位置に料亭「千葉」が残っていたりと、三業組合が解散して30年以上経った今も花街の痕跡を残している。また随所に残る石畳も往時を偲ぶよすがとなるだろう。
 ただ荒木町が惜しいのは、駅と飲食店街と坂・池の位置関係があまり良くない点だ。池のあたりの低い場所にも飲食店があれば、坂を下って飲みにいく、池を見ながら食事するといったアクティビティが発生するだろう。現状では駅から池を見ず、坂を通らずとも飲食店街までたどり着けてしまう。荒木町で飲みながら策の池の存在にも気づいていない者もあるのではないか。

「四谷荒木町(2):1972年当時の料亭の分布」

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(「荒木町マップ」(荒木町商店会公式ウェブサイト)より作成)
■荒木町商店会の飲食店の分布

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■車力門通り沿いの飲食店街

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■路地に密集する飲食店

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■料亭「千葉」

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■石畳が残る道

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■路地の石畳

 

2019.05.02

市ヶ谷駐屯地地下壕

【1993年12月 自衛隊市ヶ谷駐屯地の見学会】
 2000年5月、防衛庁本庁は現在の東京ミッドタウンの場所から市ヶ谷地区に移転したが、移転工事が着工し間もない1993年12月18日、自衛隊市ヶ谷駐屯地の見学会が行われた。
 この見学会は1937年に建設された1号館や、その内部にある極東国際軍事裁判の法廷となった大講堂を見学できるものだったが、私にとっての一番の関心事はその地下に眠る戦時中に造られた地下壕の見学だった。
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■当時の市ヶ谷駐屯地案内図 1号館は敷地の中央にある。現在は敷地内西側に移設され市ヶ谷記念館となっている。一部の区画で工事が始まっている。
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■1号館外観
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■移転工事のための基準杭

【地下壕の概要】
 この防空壕は、防衛省の説明によれば「詳しい建設目的や使用状況は不明」だが「ポツダム宣言受諾に際し、当時の阿南惟幾陸相が若手将校を集め、『天皇陛下のご聖断が下った』と伝えた場所」ともいわれている。(「大本営地下壕を公開=陸軍大臣執務室跡も 写真特集」時事ドットコムニュース)
 見学時壁面に掲げられていた「地下壕略図」によれば、約50m✕45mの範囲にトンネル状の「室」が南北に3本、東西に2本格子状に延びている。断面図の表記に不詳な点があるが、地下約16mといったところか。「室」の面積は968㎡、「通路」の面積が260㎡であり合計1,228㎡の広さだ。
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■地下壕略図を説明する広報官
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■地下壕略図をサイズを修正し描き起こした図

【通路】
 地下壕は幅1.4m、高さ2.7m。延長37mの通路2本で1号館と結ばれていた。末端には1号館に上る階段があった。また敷地内靖国通り側の地盤が低くなった部分に3箇所の出口が設けられていた。
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■1号館と地下壕を結ぶ通路

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■前方のドアが出口

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■出口を外部から見る

【室】
 幅4.3m高さ4.1mの、格子状に掘られたトンネル状の空間。壁面はコンクリートで固められ、内部を仕切って部屋をつくっていた。見学時は隔壁の跡や配電盤の跡、壁面から突出した鉄筋などが残されていた。
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■「室」の部分

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■阿南陸相の執務室跡、その奥が通信所
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■確か炊事場という説明だった記憶
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■壁面に残る配電盤の跡
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■広報官によれば、この壁面に「人の顔が見える」という噂もあった
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■占領時に壁面に書き加えられた”No Smoking”の文字

【換気設備】
 地下壕内の一画に当時の換気設備が残っている。2本の鉄骨で支えられた円筒状の設備で、見学当時まだ動かすことができた。地上に排気口があるが、上空から判別できないよう、石灯籠でカモフラージュされている。
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■換気設備
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■同上
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■換気設備の排気口をカモフラージュする石灯籠
(2000.11作成、2019.5.2 追記)

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