【荒木町の概要】
荒木町一帯は美濃国高須藩藩主松平義行の屋敷があった場所であり、屋敷内には「津の守の滝」のある「策(むち)の池」があった。
明治時代には屋敷内の池や庭園が一般に開放され、荒木町は策の池を中心とした景勝地となり、付近には花街が発展した。津の守花柳界は昭和3年には芸妓屋が83件、芸妓も226名にのぼり、その後衰退をしたが現在の区立荒木公園あたりには見番(料亭・待合・芸妓屋の組合である三業組合の事務所)が昭和58年まで残っていたという。(四谷地区協議会 観光まちづくり実行委員会「四谷まち歩き手帖3下巻 甲州街道」より)
【四方を囲まれた窪地】
荒木町は北を靖国通り、西を外苑東通り、南を新宿通り、東を津の守坂(つのかみさか)通りに囲まれている。中央の最も低い部分は標高約20mで、西、南、東を標高約30mの地形で囲まれた地形だ。また自然な地形か人工的に谷を堰き止めたものか、北側も標高が30m近くあるため、四方を囲まれた窪地となっている。
(「東京地形図 on the Google Earth」gridscapes.netをもとに作成)
【津の守の滝、策の池】
このような地形のため、津の守の滝が水源となりこの地に策の池が成立した。「五千分一東京図測量原図」(明治16〜17年頃)には130×40mほどの細長い池と直径40mほどの丸い池の2つの池が記載されている。池の周囲は樹木に覆われた斜面となっている。
現在策の池は縮小し、津の守弁財天の中に8m四方ほどの池として残されている。「五千分一東京図測量原図」で判読できる池の範囲からは外れているが、より水源である津の守の滝に近い場所に残ったのだろう。
(参謀本部陸軍部測量局 「五千分一東京図測量原図」をもとに作成)
■現在の策の池と津の守弁財天
【策の池の周囲に形成された坂と階段の街】
池が宅地化した結果、既存の市街地と池の底を結ぶ坂が形成された。荒木町の階段状の坂の位置と明治期の策の池の位置を重ね合わせると、みごとに池の周囲の斜面だった部分が現在の階段の位置と一致することがわかる。荒木町の階段坂の上の場所からは、かつては樹林越しに眼下に広い水面が広がっていたことだろう。
■策の池と階段坂の位置関係
■階段坂の上からの眺望。かつては樹木越しに水面が広がっていたことだろう。
■階段坂① 策の池北端に位置する
■階段坂② 策の池東端に位置する。中腹から左に小道が延び階段坂⑦へと続く。
■階段坂③ 策の池南端に位置する緩やかな折れ曲がり坂
■階段坂④ 策の池西端に位置する石畳の折れ曲がり坂
■階段坂④下部
■階段坂⑤ 策の池西端に位置する擁壁沿いの階段。
■階段坂⑥
■階段坂⑦ 策の池東側を等高線と並行して延びる小道の端部に位置する。
【花街の名残】
かつて発展した花街の名残であろう、池の東側、南側にあたる柳新町通り、車力門通り沿いには今でもバー・スナック、居酒屋を中心とした飲食店が集中している。また表札に「常磐津駒太夫」と掲げた家があったり、策の池に面した位置に料亭「千葉」が残っていたりと、三業組合が解散して30年以上経った今も花街の痕跡を残している。また随所に残る石畳も往時を偲ぶよすがとなるだろう。
ただ荒木町が惜しいのは、駅と飲食店街と坂・池の位置関係があまり良くない点だ。池のあたりの低い場所にも飲食店があれば、坂を下って飲みにいく、池を見ながら食事するといったアクティビティが発生するだろう。現状では駅から池を見ず、坂を通らずとも飲食店街までたどり着けてしまう。荒木町で飲みながら策の池の存在にも気づいていない者もあるのではないか。
「四谷荒木町(2):1972年当時の料亭の分布」へ
(「荒木町マップ」(荒木町商店会公式ウェブサイト)より作成)
■荒木町商店会の飲食店の分布
■車力門通り沿いの飲食店街
■路地に密集する飲食店
■料亭「千葉」
■石畳が残る道
■路地の石畳