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2019年6月

2019.06.16

四谷荒木町(2):1972年当時の料亭の分布

「四谷荒木町(1):窪地の地形が生んだ坂とバーの街」で、次のような内容を書いた。

 ただ荒木町が惜しいのは、駅と飲食店街と坂・池の位置関係があまり良くない点だ。池のあたりの低い場所にも飲食店があれば、坂を下って飲みにいく、池を見ながら食事するといったアクティビティが発生するだろう。現状では駅から池を見ず、坂を通らずとも飲食店街までたどり着けてしまう。荒木町で飲みながら策の池の存在にも気づいていない者もあるのではないか。

 この点過去はどのような状況だったか。1983年三業組合(料亭・待合・芸妓屋の組合)が解散する前の住宅地図(1972年当時)から、明確に「料亭」「旅館」と表記してあるものを地図上にプロットしてみた。現在の区立荒木公園の位置には三業組合の事務所が残っており、現在飲食店が集積する柳新町通り、車力門通り以外にも、明治期の策の池の周囲に料亭が分布しているのがわかる。2019年現在1の橘家は現存、9の雪むらは建物が残っている。
 かつて一体であった坂・池という地形と飲食店街が分離してしまったのは80年以降、料亭が閉鎖し宅地化していった結果だったのだ。2_4
公共施設地図航空 編「全航空住宅地図 新宿区」昭和48年度版 をもとに作成

 なおこれ以前の状況を知ろうと住宅協会「東京都全住宅案内図帳 新宿区東部」1962にあたったが、料亭などの表記がなく確定できなかった。また1948年頃の火災保険特殊地図を探したが、荒木町付近のものは見つけられなかった。

2019.06.09

芋坂:断ち切られた坂の残骸と跨線橋

【本郷台の崖線とJRの路線】
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■一帯の地形(©2018 Google ©2018 ZENRIN ©2009-2015 gridscapes.net)

 JR京浜東北線や東北本線を利用すると、一部赤羽から上野までの区間、本郷台(台地の名称。横浜市の地名ではない。)の東端の比高約15mの崖下沿いを走ることになる。車窓からこの本郷台の崖を眺めていると、時折線路と崖の間の狭い場所に気になる場所を見つけることがある。
さくら新道王子バラックもそのように発見した場所だが、ここでは日暮里・鶯谷間にある芋坂と芋坂児童遊園、芋坂跨線橋を紹介する。

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■位置図

 日暮里から鶯谷方面へ出発してまもなく、それまで進行方向右手に続いていた谷中霊園あたりのコンクリート擁壁が途切れ、崖下の児童公園とそれに続く坂が見える。車窓から見る限り崖下の児童公園には一本の行き止まりの坂しか続いていないように見える。そして児童公園を過ぎると車両は跨線橋の下をくぐる。窪地の底の児童公園と行き止まりの道に不自然さを感じる。

【断ち切られた坂道、代替ルートとしての跨線橋】
 この公園に向かう行き止まりの坂は「芋坂」、児童公園は「芋坂児童遊園」、跨線橋は「芋坂跨線橋」という。

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■付近の状況(©2018 Google ©2018 ZENRIN)

 現地にある台東区の坂名標によれば、芋坂は谷中から日暮里へ通じていたが鉄道により分断され、それにかわって芋坂跨線橋が建設されたという。確かに明治期の地図を見ると今の道筋が鉄道を横断して日暮里方面へと通じている。現在児童遊園へのアプローチとしてしか使われていないこの坂は、正岡子規や夏目漱石の作品にも現れる、谷中と日暮里を結ぶ坂の無残な残骸だったのだ。
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■明治期の芋坂(『東亰市下谷區全圖』明治四十一年一月調査 東京郵便局)

 芋坂跨線橋は「橋梁史年表」(土木学会附属土木図書館) によれば1928(昭和3)年開通している。「芋坂跨線橋」でサーチをすると、跨線橋としては高さが低いため下を通る電車を間近でみることができ、鉄道ファンの間では人気のスポットになっているようだ。また台東区はここを東京スカイツリーのビューポイントとして指定している。
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■芋坂跨線橋

 芋坂児童遊園は公園内にあった標識によればJR東日本の土地を台東区が借りて児童公園として使用しているようだ。園内の広場の地面には、以前のJRの建物の跡だろうか、L字型の基礎の跡が2箇所現れている。
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■芋坂児童遊園内に残る建物の基礎の跡

 かつて多くの人が通り愛されたであろう坂が現在は行き止まりの道の残骸となった一方、それに変わって建設された跨線橋はまた別の形で多くの人に愛される名所となっている。

【おまけ:芋坂脇の階段】
 なお芋坂の中程から分岐する興味深い階段があったので紹介する。
 階段の中程から十数段の石段が延びており、それにぴったり接する形でコンクリートの階段がつくられている。おそらくは隣接する建物の改築に伴い石段の半分が更新されたのだろう。階段は途中で屈曲しており、新旧の階段サイズや段数の差、高低差、中央の隔壁と手摺、踊り場から派生するもう一本の石段などの要因が実に複雑な形状をつくりだしている。新旧の階段の明度のコントラストも注目すべき点だ。
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■芋坂脇の階段の複雑な形状

2019.06.02

渋谷安全菩薩:二・二六事件の怪談と法務局事務官の死

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■東京法務局渋谷出張所の敷地内にひっそりと建つ「安全菩薩」
 渋谷公会堂、渋谷区役所、神南小、東京法務局渋谷出張所がある一画はかつて陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所があった場所で、ここで二・二六事件の首謀者十九名が収監、処刑されたことはよく知られている。同事件関連の記念建造物としては仏心会が建立、管理している慰霊像が有名だが、ここでは東京法務局渋谷出張所の敷地内にひっそり建っている「安全菩薩」を紹介しよう。
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■東京法務局渋谷出張所と陸軍衛戍刑務所の位置関係
【二・二六事件と怪談】
 この一帯には2・26事件にまつわる怪談が伝わっている。「松谷みよ子『現代民話考 III ラジオ・テレビ局の笑いと怪談』」にはNHKのプロデューサーやディレクターからの聞き書きとして以下のような話が収録されている。

「昭和四十年代の話。いまのNHK放送センターのあるところは、二・二六事件の将校たちの処刑されたところなので、この建物ができたとき、その幽霊がでたそうです。」「東口玄関のすぐ前に、二・二六事件の若い将校達が処刑された地がある。そのせいか国際局や宿直の人々がうなされるという。」
松谷みよ子(1987)『現代民話考 III ラジオ・テレビ局の笑いと怪談』立風書房.

 NHK放送センターがこの神南の地に移転したのが1973(昭和48)年、仏心会の慰霊塔が建立されたのが遡ること8年の1965(昭和40)年なので、慰霊塔の存在がNHK内での怪談の発生に寄与したことは十分に考えられる。

【事務官の不審死と安全菩薩】
 話を「安全菩薩」に戻す。東京法務局渋谷出張所の一画に小さな菩薩像がありその傍らに碑が建っている。碑文は以下のとおりである。
 「安全菩薩 十九名の青年将校と玉井事務官の霊及び 一切の諸霊の冥福を祈り 庁舎及び職員(家族)の安全を祈願する 昭和五十七年七月十五日 東京法務局渋谷出張所長」
 十九名の青年将校とは二・二六事件で処刑された将校達だろう。では玉井事務官とは誰か。なぜここで庁舎及び職員の安全を祈願しているのか。
 
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■碑文
 これについて渋谷に関する昔話を古老に聞き書きした「渋谷民話の会 野村敬子編『渋谷ふるさと語り 二十一世紀の孫たちへ』」に記述があった。

「昭和五十六年に若くて有能な、将来を嘱望されている玉井さんという事務官が派遣されてきましたが、その玉井さんが宿直をした時に原因不明の不慮の死をとげられました。」「その時の法務局の渋谷の所長さんが、これは、ということで、宗教家に相談したのだそうです。いろいろ調べた結果、この法務局の建っていた所は『二・二六事件』の、処刑場の後だということがわかりました。それでこれは御祓をしなければならないと、『安全菩薩』を建てたのです。」
渋谷民話の会 野村敬子編(2001)『渋谷ふるさと語り 二十一世紀の孫たちへ』渋谷区.

 この内容はあくまで聞き書きであるので、より正確な事実関係を求めてこの事件に関する新聞記事・雑誌記事を探してみたが、見つけることはできなかった。

 公共施設の敷地内に菩薩像を建立することについて、当時法務局内でどのような論議がなされたのか。出張所長が私費を投じたのだとしても、公共の土地に宗教的な像を建てることは相当ハードルが高かったと思われる。論理的に進められるべき行政の施設内に、心霊や祟りといった非論理的な事象の象徴が食い込んで、街並みの中で違和感を放っている。

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