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2020.02.24

赤羽台下:狭隘な谷底に密集する民家

【赤羽台の台地の下】
 神田から赤羽まで続く本郷台の北端、本郷台を削る小さな八幡谷(名称は現在確認中)。谷の奥、谷頭付近の谷底に小さな民家が密集した一画がある。擁壁に囲まれて暗く湿気が多く、細い道が民家の隙を抜けているような場所だ。空家も見受けられる。場所は赤羽緑道公園の築堤状の土地と台地べりの斜面とにはさまれた狭い一帯。台地の上には建替がされた旧赤羽台団地、現ヌーヴェル赤羽台が広がる。
 この場所を訪れた時、このような条件の悪い場所になぜ市街地が発展したのか、何か歴史的な背景があるのかと疑問に思いこの土地の履歴を調べてみることにした。
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■地形(国土地理院電子国土Web標準地図に東京地形地図(https://www.gridscapes.net/)の陰影段彩図を合成)
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■俯瞰(Google Earth)

【地区内の様子】
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■谷に下りる坂と階段。複雑で奇怪な造形。
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■谷底らしく井戸が残っている。
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■道幅は狭い。
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■谷底をはしる道。片側には高い擁壁が立ち上がる。
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■赤羽緑道公園の築堤から谷を見下ろす
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■一段高い道から望む谷地形。
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■谷の地形がわかりやすい。

【土地の履歴】
 赤羽になじみのある方ならご存知だろうが、ヌーヴェル赤羽台(赤羽台団地)はかつて陸軍被服本廠として軍服を製造する軍事工場があった。また赤羽緑道公園は西が丘の陸軍兵器支廠(現都立赤羽商業高校、味の素フィールド西が丘等)までのびる軍用の貨物線の軌道跡である。
 過去の航空写真をみてみよう。まず1936年。赤羽台には被服本廠がひろがっている。台地べりには斜面緑地がのび、貨物線と斜面にはさまれた一帯は耕作地のように見える。
1936
■1936年(国土地理院)
 次に1947年。戦後被服本廠は米軍に接収され東京兵器補給廠となっている。そして貨物線跡と斜面緑地には畦のようなものが見え耕作地であるとわかる。
1947
■1947年(国土地理院)
 そして1963年。台地上には完成間もない赤羽台団地が広がり、そして問題の箇所は一気に市街化をしている。斜面緑地も消失している。
1963
■1963年(国土地理院)

 どうやら何かどす黒い歴史が背後にあるというのは完全な勘ぐりだったようで、高度経済成長期に急増した人口の受け入れ先として、宅地としては不向きなこの土地にも開発が及んだというのが正解らしい。参考までに北区の人口の推移をみると戦後から1965年までの20年間で人口は2倍に増えている。赤羽駅にほど近いこの土地が開発の波をうけるのも当然だ。
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■北区の人口推移(国勢調査、1935年と1940年は王子区・滝野川区の合計)
 そして1965年をピークに、人口は近年その3/4にまで減少している。なかば無理やり開発されたこの土地に空家が発生するのも無理からぬことかもしれない。【吉】

2月 24, 2020 at 10:45 午後 ■北区 |