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2025.03.10

高田馬場2丁目 謎のトンネル(戸塚暗渠)

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 謎のトンネルの発見、わき起こる疑問 

先日高田馬場でふと西武新宿線のわきの道路を歩いてみる気になった。映画「警視庁物語 遺留品なし」(1959)でこの道の奥にあるダンス教室で話を聞くシーンがある。今どんな雰囲気になっているか気になったのだ。進行方向右手は稲門ビルという大きなビル。左手は西武新宿線の擁壁に貼りつくように小さな店が建ち並ぶ。

 そして立ち並んだ一番奥の店、その陰に隠れるように小さなトンネルがあるのを発見した。

 入口は半分以上店の建物で隠れ、開口部はネットフェンスと鉄骨で塞いである。中を覗くと店の建物が中まで続き、エアコンの室外機が置いてあった。

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■店の陰のトンネル

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■トンネル内部

 

 ここで線路の反対側を確認したくなった。はたして反対側までトンネルが続いているのだろうか。

 一旦早稲田通りまで戻り、西武線のガードをくぐり、タックイレブンビルと山手線の間の道を入る。この場所、高田馬場2-19一帯は西武線と山手線の間に挟まれ、奥は神田川で行き止まりになった袋小路状の場所だ。

 袋小路を奥にはいると、少しわかりにくい場所だったが反対側のトンネルを発見したコンクリートの擁壁の下、まわりより少し低くなった場所に、反対側と同じ形のトンネルが空いていた。やはりネットフェンスと鉄骨で塞いであり、中には店舗用とみられる椅子や什器が乱雑に置かれていた。奥には反対側の開口部が見えている。

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■反対側の開口部

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■トンネル内部

 

 このトンネルについてツイートしたところ情報が寄せられた。高田馬場FIビル2階のエレベーターホールに高田馬場の昔の絵地図がパネルにしてあり、そこにトンネルに関する記載があるというのだ。

 さっそく現場に行ってみた。

 「記憶の家並みと商店街 1935年代の高田馬場1〜2丁目」と題した、幅3mにもわたるパネルにびっしり描き込まれたこの絵地図は、地元で育った濱田熙氏が昔のスケッチや同級生の記憶などをもとに1990年から2001年にかけて作成したものだ。

 その一端、問題のトンネルに相当するあたりに「高さ2.5メートル位の小さなトンネル」と書いた吹き出しが書いてあるではないか。

 それではあのトンネルは通路だったのだろうか。ではなぜ今塞がれているのか。道が閉鎖されるなどということがあるのだろうか。

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■記憶の家並みと商店街

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■トンネルに関する記述

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■トンネルの位置

 

 いきなり結論 

 以下この疑問を解くべく収集した様々な資料、およびそれによってわかった事実について書いていくが、長くなるのでまず結論から書いていこう。


・このトンネルは「戸塚暗渠」。

・もともとこの場所に神田川に流れ込む水路
 (清水川の下流と思われる)があったが、
 1927年西武新宿線)を建設する際
   水路を暗渠(地下水路)化しトンネルをつくり通した。

所有者は西武鉄道(元土手の部分)と新宿区(元水路の部分)。

・閉鎖の経緯は解明できなかった。 

 調査の過程に興味がある方はここから先を読み進めてほしい。

 

 登記簿:トンネルの所有者は西武鉄道+α 

 まず所有者を知るため法務局地図で地番を調べ、土地の登記簿を取得した。トンネル内を2本の細い土地が貫いている。一方の地番は高田馬場2-24-6、西武新宿線と同じ西武鉄道の所有。もう一方は地番のない「長挟物(ちょうきょうぶつ)不明」、すなわち道や水路で境界が不確定な土地だ。登記簿がないためこの土地の所有者はこの時点ではわからなかった。

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■法務局地図

 

 道路台帳:道路法上の道路ではない/もうひとりの所有者は新宿区 

 一方新宿区の道路台帳を調べると、トンネルが幅0.91mの道として記載されていた。道路台帳に掲載されているということは、やはり道路なのだろうか?

 この点を確認するため新宿区道路課にヒアリングをした。その結果道路台帳には記載されているが法令上の「道路」にはあたらず新宿区所有の「特定公共物」(道路法が適用されない道や河川法が適用されない水路)だという回答であった。

 つまり道路ではないこと、法務局地図で「長挟物不明」と表示されている部分は新宿区の所有であることが判明した。

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■道路台帳

 

 地籍図:もとは水路と土手 

 大正4(1915)年の「東京府豊多摩郡戸塚町大字戸塚地籍図」を確認した。地番2-24-6は記載がなかったが、のちにその一部が分かれて(分筆されて)2-24-6となる地番2-24-4が確認できた。灰色に着彩されており、凡例によれば「土揚敷」(いわゆる土手)であったことがわかった。そしてそれに沿って神田川にそそぐ水路が確認できた。

 つまりこのトンネルのうち西武鉄道所有の地番2-24-6はもと土手であり、新宿区所有の土地はもと水路であったのだ。


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■地籍図

 

 市街図:神田川に流れ込む水路(清水川か)が流れていた 

 広域的に確認するため明治44(1911)年の「戸塚町市街図」を確認した。地番24と番号のついた土地はやはり水路沿いにあった。かつては山手線付近から流れてきた水路がこの一帯をよこぎり神田川にそそいでいたことがうかがえる(地籍図で確認したところ、この水路は清水川と無地番の土地でつながっていることから、清水川の下流であると思われる。なお現在清水川は山手線の西側を流れていることから、ある時点で改修されたものと考えられるが、この点は未確認)。

 昭和2(1927)年ここに水路をよこぎるように西武新宿線が建設される。その際に、水路の機能を残すためにトンネルを通したことは十分考えられるのではないか。

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■市街図

 

 西武鉄道からの情報:施設の名称は「戸塚暗渠」 

 だめもとで所有者のひとりである西武鉄道にメールで問い合わせしたところ、回答をいただいた。トンネルが閉鎖された経緯はわからないが、トンネルの名称は「戸塚暗渠(とつかあんきょ)」であるという情報をいただいた。名称が「暗渠」(地下に埋められた水路)ということは、やはりトンネルの下にはかつて流れていた水路が通っているのだ。

 「戸塚暗渠」で文献を探したところ、「西武鉄道村山線の工事概要」(工事画報社「土木建築工事画報」昭和3年10月号)という雑誌記事が見つかった。西武新宿線の前身西武鉄道村山線について、西武鉄道の当時の社長岡野昇氏が完成直後に書いた記事である。西武鉄道村山線は昭和2(1927)年4月16日に山手線外側に高田馬場仮駅を設置し営業を開始していたが、省線(現JR)高田馬場駅に連絡させる工事は昭和3(1928)年4月14日まで続いた。その際に戸塚暗渠がつくられたというのだ。そこには「戸塚暗渠は径間十フィートの拱渠にして全部コンクリート構造とす」とあった。「拱渠(こうきょ)」とはアーチ状にして水路を通す構造物のことで、径間はおおむねトンネルの幅、10フィートは3.048mだ。12_20250309122301
■「西武鉄道村山線の工事概要」(工事画報社「土木建築工事画報」昭和3年10月号)

 

 下水道台帳:下水道の存在は確認できず 

 トンネルの下に水路が通っていることを確認できないかと思い、下水道台帳を確認したが、記載はなかった。東京都の下水道局によれば下水道台帳に載っているのは公共下水道のみであって、私有地内などの排水管については把握していないということだった。

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■下水道台帳

 

 新宿区道路課と西武鉄道:閉鎖の経緯は不明 

 閉鎖の経緯について、前述のように西武鉄道から情報は得られなかった。一方新宿区道路課のヒアリングでは、安全上の問題など何らかの問題があった場合、西武鉄道と新宿区が協議の上閉鎖することはありうるという回答だった。

 

 以下推測:閉鎖の経緯 

 水路がある地区に鉄道をつくるため水路を通すトンネルがつくられ、水路自体は暗渠化した。とすれば地上部は通行に使われていたのではないか。絵地図にあった「小さなトンネル」という表現も当時通行できたことを示しているように感じられる。

 しかし通路として必要性のあるルートではないことからあまり利用されず、通行者の安全性への懸念などもあり、西武鉄道と新宿区が協議の上閉鎖したのではないかと推測する。

 

 このトンネルを改装し、飲食店として活用することを妄想した。客が数人しか入れない飲み屋を開き、夜は赤い光で照らしたい。トンネルのある一帯も怪しげだが、それ以上に秘密めいた、魅力的な空間になるのではないか。【吉】

 

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