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2025.04.14

戸塚暗渠の水路と清水川の位置

「高田馬場2丁目 謎のトンネル(戸塚暗渠)」で、戸塚暗渠を流れていた水路は「清水川の下流であると思われる」と述べたが、文中で軽く触れただけであったので改めて地図上で根拠を示したいと思う。

 

使用した資料

清水川はかなり小さな川であったようで、日本帝國陸地測量部の旧1万地形図(明治44(1911)年〜昭和2(1927)年)には記載されていない。その概略の流路は逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)で知ることができる。また林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期、以下旧地籍図という)には土地の地番とあわせ水路が「河溝」として示してあり、より正確な場所を知る手がかりとなりそうである。

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■逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)には清水川が表記されている

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■林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期) 当時の水路が着色されている

 

清水川の位置の特定方法

今回はこれら旧地籍図の水路を現在の地籍図と重ねることで清水川の位置の特定を試みた。ただし旧地籍図は地図としての正確さに劣り現在の地図と重ね合わせることはできないので、以下のような手順をとった。

①旧地籍図上で水色に着色された「河溝」(水路)およびその周囲の土地の地番を把握する。

②現在(令和6(2024)年)の地籍図上で①で把握した地番に対応する土地を特定し、それとの位置関係や形状から「河溝」に対応する土地を旧河道として割り出す。

なお土地の地番は分筆(土地の分割)や合筆(土地の併合)により変わることや、現在の地籍図と地図を重ねる際に参考にしたブルーマップ(地籍図と地図の重ね図)が必ずしも正確でないことなどにより、特定した旧河道には若干の誤差があると思われる。

 

位置の特定の実際

以下に実際の作業図を用いながら作業の詳細を解説する。

①旧地籍図の「河溝」(水路)とそれに隣接する地番の把握

林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年)をもとに河溝部分および水路の可能性が高い無地番地を着色、河溝に隣接する地番とその範囲を記入した。

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■旧地籍図 土地の境界、地番や地目が記入してある

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■河溝の着色 河溝(水路)の部分を着色。地番のない土地も水路の可能性があるので着色する。

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■隣接する地番の把握 水路に隣接する土地の境界と地番を記入。地番84-85と83-86の間に水路がある。

 

②現地籍図上での地番の把握

①で把握した地番に対応する土地の範囲と地番を記入した。

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■現地籍図 令和6(2024)年現在の土地の境界・地番

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■土地・地番の記入 旧地籍図で水路に隣接していた土地の地番・境界を記入。分筆・合筆で土地の形は変わっている箇所もある。

③旧河道の把握

②の地番との位置関係、土地の形状から旧地籍図の河溝(旧河道)の位置を把握、着色した。

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■旧河道の着色 旧地籍図で水路であった地番84-86と83-86の境界付近で水路の形状に似た土地を旧河道と推定した。

 

結 果

上記の作業の結果旧河道として特定したのが下図の赤い箇所である。合筆などにより水路であった土地が周囲の土地と一体となり、正確な位置がわからない箇所については点線で表現した。多少のずれは否めないが、清水川の大まかな位置を特定でき、戸塚暗渠の水路が清水川から連続していることが確認できた。

清水川はほぼ現在の鉄道施設内を流れていたが、戸山口がある第二戸塚ガード付近より上流は鉄道施設の西側の道沿いに流れていたようである。

なお実際の河道は南側の都道を越えた戸山側から流入し、下流はさらに西の方へ流れていたが、戸山は官有地であったことから旧地籍図で詳細は把握できず、北側は戸塚暗渠と無関係なので省略した。

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■旧河道の位置 

 

課題:清水川とはどこからどこまでなのか

今回清水川の旧河道を調べるうち、そもそも清水川とはどこからどこまでなのかという問題につきあたった。

逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)では清水川は高田馬場駅の北で東西に分かれ、東側はまもなく神田川に合流するが(ルート①)、西側は神田川に接したり離れたりしながら延々と小滝橋付近まで流れている(ルート②)。

一方戸塚町誌刊行会「戸塚町誌」昭和6(1931)年には「細流素々として戸山より落ち、大字戸塚地内を南北に流れて山手線ガード下にて神田上水に入る。」という地図にないルート(ルート③)について記載してある。

ルート①、ルート②を流れていた川に、ある時点(昭和初期?)でショートカットして神田川に流すルート③がつくられたのだろうか。

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■逓信協会地図の河道と戸塚町誌の河道

現在ルート②とルート③とほぼ同じルートを下水道の戸塚西幹線とそこから分岐した雨水管が通っている。ルート③は戸塚町誌に記載のある清水川が暗渠化されたものと考えてよいだろうが、ルート③を離れ延々1kmにわたって小滝橋まで流れていたルート②ははたして清水川の下流と呼んでよいのか。西戸塚幹線は清水川の暗渠化された姿と考えてよいのか。

この点が曖昧なまま残された課題である。【吉】

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■現在の下水道西戸塚幹線と分岐した雨水管

<追 記(2025.5.5)>

本田創さんの指摘によれば、2の水路は神田川小滝橋付近に堰をつくって分水した灌漑用の水路(あげ堀)とのこと。

 

 

 

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