■江戸・明治・昭和初期の長者丸
住宅地としての成立時期を調べるため、古地図にあたってみた。小さな地域なので現在の区分地図クラスの縮尺でないと情報が得られない。
江戸期:安政三年(1856) | ・白金村の一画に「長者丸」という表示がある。一帯は農地。
・元国立予防衛生研究所の一帯は堀出雲守の下屋敷。
文献:丸善「江戸・東京重ね地図」 |
明治時代:明治44年(1911) | ・一帯はまだ農地で
・かつての大名屋敷は陸軍衛生材料廠になっている。
文献:東京逓信管理局編纂「東京市近傍郡部町村番地界入地圖」 |
昭和初期:昭和5年(1930) | ・一帯は区画整理され、○○邸という表示がいくつか見え、現在の位置に駐在所もある。
・恵比寿ガーデンプレイスとの間の谷には都電の「エビス長者丸」という停車場が。(恵比寿長者丸線については「09 Photo-Rail」の「路面電車があった街へ-東京都電」参照)
文献:番地界入 東京府荏原郡大崎町全図 |
明治から昭和初期にかけて、一帯は一気に住宅地として開発されたようである。
ここで思い出されるのが、大正末期から昭和初期にかけて集中的に行われた東京郊外の住宅開発だ。現東急電鉄の田園都市株式会社が田園調布を開発したのを始め、郊外が住宅地として開発され、関東大震災が郊外への人口流出に拍車をかけた。長者丸もそうした街の一つだったのだろうか。
■石碑の発見
最初に長者丸を訪れて以来、資料の調査を進める一方、何度か現地を訪れていた。そうしたある日、現地で一つの石碑と、文を刻んだ金属柱を見つけた。そこにはこう書いてあった。
| 【表】
吉田翁碑
上大崎長者丸ハ 白金御料地ノ緑樹ヲ以テ市塵ヲ隔テ 地爽ニ氣清ク郭外ノ名區タリ
所有者吉田彌一郎氏 曩(さき)ニ荒ヲ開キ路ヲ通シ 住宅地トシテ提供セシヨリ
相尋キテ邸第ノ築造アリ 林叢一變シテ瀟洒タル邑里ヲ成スニ至ル
爾来居住者ハ 氏ヲ中心トシテ隣保相親ムコト一族ノ如ク
其自治ノ美風ハ人ノ傅稱スル所ト成レリ
大正十三年一月氏ハ長逝シタレトモ 令嗣幸三郎君後ヲ承ケ
其遺業永く渝(か)ハルコトナシ
我等同人ハ 間雅ノ境ニ安住ノ地ヲ得 氏ノ厚情ト温容トニ對シ
追懐ノ念止ムコト能ハス
茲(ここ)ニ五周年ノ忌辰ニ際シ 胥(みな)謀リテ碑ヲ建テ
其恩誼ヲ後世ニ記念スルモノナリ
昭和三戊辰年三月 |
【裏】
五十嵐秀助 井上良雄 石川彌太郎 二條泰子 大谷登 太田信義
小栗八郎 加藤丑之助 片岡隆起 神野清五郎 横山信毅 辰巳一
田中次郎 武内常太郎 竹内昇 成田榮信 内田好之輔 野村素一
山口宏澤 松本秀彦 間崎道知 福原信三 福澤大四郎 福島行信
小堀治三郎 江藤捨三 寺原董尚 鮫島宗平 湯河元臣 宮井誠吉
宮之原軍吉 下岡忠一 平井正憲 森作太郎 関根要八 鈴木主計
(英文)吉田彌一郎氏(1857-1924)記念碑
呉服商。1928年に36名の借地者で設立された長者丸住宅街の開発者。
隣の金属柱には彌一郎の相続人にして邦楽と日本美術の後援者、吉田幸三郎(1887-1980)について記してある。 |
これによって、長者丸について以下のことが一気に明らかになった。
・長者丸は昭和3年(1928)、呉服商吉田彌一郎によって開発された。
・当初の借地人は裏面に記された36名。
跡継ぎの吉田幸三郎が邦楽と日本美術の後援者とあるが、吉田彌一郎自身も日本画家の速水御舟を娘婿に迎えるなど伝統芸能に理解のある、また彼らを援助するだけの財力をもった一族だったようである。(その3につづく)【吉】