■北区

2025.06.14

映像の中にみる王子スラム

 「王子バラック」で紹介したいわゆる王子スラムだが、先日60年代のテレビドラマ「特別機動捜査隊」の中にこの場所でロケをしている回を発見したので映像資料として紹介したい。
 「特別機動捜査隊」はNETテレビ(現テレビ朝日)で1961年から1977年まで続いた長寿のテレビドラマだが、今回紹介するのは1965年に放映された第193話「罪と罰」。容疑者の家が王子スラム内にあるという設定で2度ほど特捜隊がここを訪れる。

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■王子スラムの概念図

 今回登場する一帯を地図と記憶をもとに概念図にした。位置関係だけを表しているので距離やサイズは正確ではない。
 王子スラムはその西端を台地上の区道に接していた。そこから東に向かい台地に細い帯状の谷を削りながら低地にまで降りていた。帯状の谷底の両側には木造トタン屋根の粗末な家屋が並び、中央に通路があった。途中都道455号線がこの谷をわたる南橋があり、谷の北側には当時の十条台小学校があった。
 低地にでると細長い土手となって東に伸び、京浜東北線などの鉄道敷の前で一旦途切れるが、その反対側からまた土手が伸び、土手は次第に低くなりながら当時の王子中学校付近まで伸び、一般の区道に溶け込んでいた。鉄道敷の手前には区道が土手をくぐるトンネルがあった。

では特別機動捜査隊のシーンを「谷部」「土手部」にわけて紹介していこう。

【谷部】
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1 南橋からみた谷部1
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2 南橋からみた谷部2
 南橋から谷部を見下ろすシーン。細い道の両側に木造トタン屋根のバラックが建ち並んでいる。
 「王子バラック」で紹介したように、この一帯には終戦直後に都によって石神井川沿いから移住させられた在日韓国朝鮮人たちが多く住んでいたという。画像1の屋根の上には「在日朝鮮人祖国往来実現達成 一層の御支援を願います」とある。在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業は1959年から始まったが、日本と北朝鮮を自由に往来することはできなかったという。当時「祖国往来」を実現するための運動が盛んであり、この看板もロケのために据え付けたものではないだろう(この辺の事情に詳しくないので間違いがあったらすみません)。

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3 南橋からみた谷部3
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4 南橋からみた谷部4
 谷部の全景。前方で谷が開けて低地の方が見えている。

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5 南橋から谷部の全景(1〜4をつなげたもの)
 1〜4の画像をつなげると、規模感を含め当時の南橋からの雰囲気がより伝わるものになった。

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6 南橋から谷部へ降りる道1
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7 南橋から谷部へ降りる道2
 記憶にはないが、南橋の横から谷部へ降りられる道があったようだ。画像5は上から、画像6は下からのショット。

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8 谷部の中央をはしる道1
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9 谷部の中央をはしる道2
 バラックが建ち並び、道幅2m未満の未舗装の一本道が続く。

【土手部】
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10 谷部から土手の下へ1
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11 谷部から土手の下へ2
 谷部を抜け、土手の下にある容疑者の家へ向かう刑事。
 画像10は下から、画像11は上からのショット。画像10の背景に見える建物は台地上にある当時の十条台小学校。

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12 土手下を流れる水路
 土手下の家の裏を水路が流れていたようだ。家の裏側に回らなかったためか。記憶には残っていない。

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13 バラック外観
 容疑者の家。外壁は板を打ちつけただけで、屋根はトタン葺きのようだ。
左上方に土手の上を歩く人物が写っているので家が土手下にあることがわかる。
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14 バラック内部
 容疑者の家。板がむきだしの内装。天井板はなく屋根は板を打ちつけトタンを葺いただけのものか。電気は通っている。前後のシーンがなめらかにつながっているし、室内だけ別の場所で撮る意味もないので現地の家屋を使っているものと思われる。

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15 土手部1
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16 土手部2
 土手部。周囲の家と比べると土地が高くなっているのがわかる。たくさん物干し台が立っている。数は少ないが土手上にも建物が建っていたようだ。

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17 土手の端部1
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18 土手の端部2
 土手の鉄道敷側の端。鉄道敷とはコンクリート製の柵で区切られていた。

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19 鉄道敷と反対側の土手
 線路越しに反対側の土手(概念図の土手部②)が見えている。

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20 土手部から谷部方面を見る
 土手側から谷の方を見たショット。V字型の谷や台地上の十条台小学校が見える。

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21 ラストシーン1
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22 ラストシーン2
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23 ラストシーン3
 ラスト、南橋上から望遠で刑事達を写し、谷の全景にズームアウトする。

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24 トンネル
 この回ではないが、「特別機動捜査隊」第156話「みだれ」では区道が土手をくぐるトンネルが写っている。トンネルのアーチの部分は現在近くのちんちん山児童遊園に保存されている。

【音無橋一帯】
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25 石神井川と音無橋
 第193話「罪と罰」では王子スラムのほかに王子駅付近、石神井川の音無橋一帯も写っている。現在音無橋の下は親水公園化されているが、まだあたりが深い渓谷で堰があった頃の様子が記録されている。

 

 なお王子スラムが登場する映像作品としては1979年柳町光男監督の「十九歳の地図」が知られている。「特別機動捜査隊」はモノクロの作品で画質は悪いが、地区内をくまなく家の中まで撮影した作品としてまた貴重な映像資料と言えるのではないか。【吉】

 

2020.02.24

赤羽台下:狭隘な谷底に密集する民家

【赤羽台の台地の下】
 神田から赤羽まで続く本郷台の北端、本郷台を削る小さな八幡谷(名称は現在確認中)。谷の奥、谷頭付近の谷底に小さな民家が密集した一画がある。擁壁に囲まれて暗く湿気が多く、細い道が民家の隙を抜けているような場所だ。空家も見受けられる。場所は赤羽緑道公園の築堤状の土地と台地べりの斜面とにはさまれた狭い一帯。台地の上には建替がされた旧赤羽台団地、現ヌーヴェル赤羽台が広がる。
 この場所を訪れた時、このような条件の悪い場所になぜ市街地が発展したのか、何か歴史的な背景があるのかと疑問に思いこの土地の履歴を調べてみることにした。
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■地形(国土地理院電子国土Web標準地図に東京地形地図(https://www.gridscapes.net/)の陰影段彩図を合成)
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■俯瞰(Google Earth)

【地区内の様子】
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■谷に下りる坂と階段。複雑で奇怪な造形。
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■谷底らしく井戸が残っている。
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■道幅は狭い。
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■谷底をはしる道。片側には高い擁壁が立ち上がる。
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■赤羽緑道公園の築堤から谷を見下ろす
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■一段高い道から望む谷地形。
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■谷の地形がわかりやすい。

【土地の履歴】
 赤羽になじみのある方ならご存知だろうが、ヌーヴェル赤羽台(赤羽台団地)はかつて陸軍被服本廠として軍服を製造する軍事工場があった。また赤羽緑道公園は西が丘の陸軍兵器支廠(現都立赤羽商業高校、味の素フィールド西が丘等)までのびる軍用の貨物線の軌道跡である。
 過去の航空写真をみてみよう。まず1936年。赤羽台には被服本廠がひろがっている。台地べりには斜面緑地がのび、貨物線と斜面にはさまれた一帯は耕作地のように見える。
1936
■1936年(国土地理院)
 次に1947年。戦後被服本廠は米軍に接収され東京兵器補給廠となっている。そして貨物線跡と斜面緑地には畦のようなものが見え耕作地であるとわかる。
1947
■1947年(国土地理院)
 そして1963年。台地上には完成間もない赤羽台団地が広がり、そして問題の箇所は一気に市街化をしている。斜面緑地も消失している。
1963
■1963年(国土地理院)

 どうやら何かどす黒い歴史が背後にあるというのは完全な勘ぐりだったようで、高度経済成長期に急増した人口の受け入れ先として、宅地としては不向きなこの土地にも開発が及んだというのが正解らしい。参考までに北区の人口の推移をみると戦後から1965年までの20年間で人口は2倍に増えている。赤羽駅にほど近いこの土地が開発の波をうけるのも当然だ。
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■北区の人口推移(国勢調査、1935年と1940年は王子区・滝野川区の合計)
 そして1965年をピークに、人口は近年その3/4にまで減少している。なかば無理やり開発されたこの土地に空家が発生するのも無理からぬことかもしれない。【吉】

2020.01.30

さくら新道(3):さくら新道の終焉

 「さくら新道(1)」で紹介し、「さくら新道(2)」で火災後の様子を紹介した王子飛鳥山下のさくら新道だが、そこで営業を続けていた「スナックまち子」が2019年いっぱいで営業を終了したと聞いてまた現地を訪れた。

 2012年の火災で消失した部分はフェンスで囲まれ、火災後も営業していた「みよし」「まち子」ともに空家となっていた。そしてまち子の壁面の「解体工事のお知らせ」には2020年の2月3日から解体にとりかかる旨が記してあった。オリンピック前から約55年間続いた、王子のホームから見える奇妙な建物群、さくら新道の歴史はここに終わる。

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■2012年の火災で消失した部分はフェンスで囲まれた空地に。
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■「まち子」「みよし」は火災後も営業を続けていた。
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■解体のお知らせ。2020年2月3日から解体開始。

 しかしまち子のドアに、「今後お店を再開する際にはツイッターにてお知らせ致します」と移転再開を匂わせる張り紙があった。さくら新道の記憶を受け継ぐ店が、またどこか別の場所で再開することを期待しよう。【吉】
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2020.01.29

岸町2丁目:台地のふところの細街路ラビリンス

 京浜東北線赤羽〜上野間の西側には鉄道に沿うように本郷台の末端の崖線が伸びている。
 その中でも斜面の魅力が凝縮している東十条〜王子間に広がる北区岸町の2丁目について紹介する。

【台地のふところに食い込む細街路網】

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■地形と斜面緑地、道路網(等高線は東京地形地図 ©2009-2015 gridscapes.net による)

 この地区には国土地理院の地図にも表示されないような、幅員2mにも満たない細街路が毛細血管のように伸びている。低地側からアクセスすると斜面を上るにつれ道が細くなり、民家と民家の間を縫うように進み、やがて斜面に吸い込まれてなくなっていくような感覚を覚える。
 実際延長約500mのこの区間で台地上と低地を結ぶ道は4本と極めて少なく、斜面に向かって伸びる道は大多数が斜面の中腹で行き止まりとなっている。そのため道のつきあたりに斜面緑地や擁壁がたちはだかり、その向こうの高い位置に台地上の建物が並ぶという特徴ある景観がつくりだされている。

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■低地から崖線を見る1,2
02 ■低地から崖線を見る 3,4
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■低地から崖線を見る 5,6
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■台地の末端、左は斜面緑地、右は民家
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【坂と階段】
 街路が斜面にさしかかる場所には多くの坂や階段がある。細街路はその多くが私道であり、公道にはみられない独特の形状をしており、道路の狭い幅員と擁壁、密集する民家が台地のふところに身を隠すような適度に囲まれた心地よい空間をつくりだしている。
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■岸町の坂と階段

 なお私道で通り抜けはできないが、台地上の開けた眺望から狭く湿った斜面の階段を通り、再び低地の町並みで開けるという、崖線を横切る際の空間変化の楽しみを全て詰め込んだような階段がある。
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■台地上より。道のつきあたりに空間が開ける。
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■台地端より。民家の陰に階段が伸びていく。
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■階段を降りる。民家と擁壁のすきまに消えていく階段。
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■民家と擁壁の間に伸びる暗く湿った階段。

【眺望】
 台地上の末端を歩くと、ところどころで突然東京低地に向けたドラマチックな眺望が広がる。それまで意識していなかった自分の高さ方向の位置を唐突につきつけれられる驚きは崖線沿いを歩く楽しみの一つだ。
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■眺望が開ける地点

2012.01.28

さくら新道(1)

 さくら新道は北区王子一丁目14〜18、JR王子駅北側、飛鳥山公園とJR京浜東北線の間の道沿いにのびる戦後まもなくできた木造長屋の飲食店街だ。

より大きな地図で さくら新道 を表示

<狭い、暗い、古い>
 飛鳥山は地形上日暮里・上野へと続く上野台の一部だ。さくら新道はいわば上野台の山下に位置している。前面の道は幅約3m。山の北東側に3mの間隔で接しているということは日がほとんど当たらないということだ。飛鳥山は徳川吉宗が江戸郊外の行楽地として整備して以来桜の名所として知られるが、山の北側にあたるここからはさくら新道という名前にもかかわらず満開の桜を楽しめることはないだろう。狭い、暗い、古いという商店立地上からみればネガティブな要因ばかりの飲食街だが、それが却って一部の裏町を愛好する人々をひきつけている。
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<はずれくじ>
 さくら新道と駅をはさんで反対側、駅前広場があり栄えている側に柳小路という飲食店街がある。この場所はもと道沿い延長約30mに許可出店数11店舗が並ぶ闇市だった。。この場所を区画整理で再整備する際、抽選にもれた店舗が現在の土地に移るよう指示されたという。この土地は一部資料には国有地とあるが、住民へのヒアリングでは都有地ということだ。登記によればJR東日本所有の鉄道用地だ。
 繁華な駅前から駅裏へ。前面の道は現在では本郷通りの一里塚交差点まで続いているが当時は行き止まりで舗装すらされていなかったという。駅への行き帰りにふらりと立ち寄れる飲食街ではなく、この場所目当ての客しかやってこないわけだ。この地に移動してきた人々にとっては大変なはずれくじであったに違いない。
 一方当時王子に工場があった宝酒造が店舗をサポートする場面もあったという。
 この場所の道筋を地図で確認する。1946年の「東京戦災白地図」には水路が記されているだけで道はまだできていない。1972年、1985年の住宅地図には道が記載されているが途中で途切れているように見える。1995年の住宅地図でようやく明確に本郷通りまで道が表現されている。たしかにここは「新道」なのだ。
 
<木造二階建三棟>
 建物は木造二階建の長屋が三棟、道と並行している。二階は総じて増築され街路側に張り出しており、一部線路側に三階を増築した店もある。内階段はなく二階へは道路側から階段を上ることになる。
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■新道入口より。木造二階建、張り出した二階

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■新道奥より

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■新道中程から入口方面を見る

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■夜間の様子1

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■夜間の様子2

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■夜間の様子3

 棟と棟の間には水道がある。共同の水場として使われていたのだろう。トイレは二棟目と三棟目の間にタンクを埋めてつくったという。現在は共同便所はなく、後に述べる事情で建物の内部を確認することができたが、便所も風呂も各戸にあったようだ。
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■棟間の水場1

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■棟間の水場2

 さくら新道の建物は王子駅のホームから目立つ。王子駅の利用者なら必ずその建物を知っているはずだ。二階の上に大きな板状の構造がホーム側を向くように立っている。これはもともと競輪・競艇用の看板としてつくったものだという。しかし東京オリンピックを迎えるにあたって東京都から景観上の指導があり、看板として使われることはなかったという。
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■王子駅ホームから。使われることのなかった看板

<営業中は6軒>
 建物は19の区画に分かれており、桜新道新生会という商店会をつくっている。そのうち、2011年末で営業していたのは6軒。店舗名が判読できる1985年以降の住宅地図から店舗の変遷をたどると、現在空地になっている新道入口のあたりには、1985年頃までの住宅地図ではさらに3件店舗等があったのが確認できる。また2005年から2011年の間に、かなりの数の店舗が廃業し個人住宅となっていた。
 営業中の6軒をみると長く営業していた店舗が多い。「スナックまちこ」は、店主によれば開業して45年になるという(2012年現在)。(営業していた店が6軒というのは残った店の店主による。住宅地図と写真で営業を確認した店舗を合わせると9軒になるが、同じ商店会に属していた店主の方が正確だろう)
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■住宅地図から読み取った店舗の変遷

<ロケ地としてのさくら新道>
 独特の雰囲気からさくら新道はロケ地としても使われている。前述のスナックまちこは2005年日本テレビ系ドラマ「女王の教室」の「スナックきょうこ」として撮影に使われた。またさくら新道は2004 松竹、ザナドゥー配給映画「血と骨」でもロケ地として使われたという。またさくら新道が2004 松竹、ザナドゥー配給映画「血と骨」でロケ地として使われたという記述が「散歩の達人」2007年4月号にあるが、DVDではそれらしき街並は確認できなかった。また同映画のパンフレットにも記述はなかった。

<聖徳院の謎>
 なお新道の入口に「聖徳院」という寺院がある。飛び抜けて奇妙というわけではないが、一種理解しがたいつくりの寺だ。これについてはすでにまとめてあるサイトに譲ろう。(珍寺大道場)

関連記事:

「さくら新道(2)」:さくら新道の火災
「さくら新道(3):さくら新道の終焉」

 

参考資料
「東京人」2000.10 都市出版
「散歩の達人」2007.4 交通新聞社
「王子」1930 大日本帝国陸地測量部
「東京戦災白地図 王子」1946 戦災復興院
住宅地図「北区」1972 公共施設地図航空
住宅地区「北区」1985 ゼンリン
住宅地区「北区」1995 ゼンリン
住宅地区「北区」2005 ゼンリン
住宅地区「北区」2011 ゼンリン
「ヤミ市模型の調査と展示」1994.10 東京都江戸東京博物館
朝日新聞
毎日新聞

さくら新道(2):さくら新道の火災

<大火災>
 2012年1月21日午前5時50分、さくら新道の一角から出火、火事は5時間にわたり3棟のうち奥の2棟約600㎡を全焼した。4名がけがをし病院に搬送され、うち74歳の女性が意識不明の重体。この火災で鉄道の送電線や地下のケーブルが断線、JR4路線と都電荒川線が最長7時間運転を見合わせた。原因は火元の住宅に住む女性が使用していた電気ストーブの火が布団に引火したもの。

<火災から6日後>
 火災から6日後の2012年1月27日に現場へいった。現場はまだ焼け焦げ水に濡れた家財道具が道路を埋めるように投げ出されたままだった。日陰であるため、焼跡には4日前に降った雪がまだ残っていた。
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■道路側から1

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■道路側から2

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■道路側から3

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■道路側から4

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■道路側から5

 一番奥の棟は文字通り全焼。真ん中の棟は道路側に一部焼けていない部分を残すのみ。二階の屋根は落ち、炭化した柱と梁がのこるばかりだった。1階店舗内は全て炭化。床は落ち地面がむきだしになり、真っ黒な戸棚には真っ黒な食器が残されていた。
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■二階の状況

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■焼け落ちた店内。床が焼け落ち土が露出している。

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■店内から道路側を見る。

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■炭化した棚。

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■真っ黒な食器。

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■風呂場。溶けた浴槽。

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■便所。

 裏の線路側にまわると堤の上から全体が見渡せた。裏は表以上に激しく焼け、壁は全く残っていない。地面は焦げた柱や梁、屋根に乗っていたトタンの波板が積み上がっている。ホームに向かって建っていた「さくら新道飲食街」の看板がフレームだけ残して立っていた。
 こちら側にまわって初めてわかったが、堤の上にはホーム側に向かって「交通安全地蔵尊」が建てられていた。JRが管理しているらしい。
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■線路側より全景。

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■線路側より全景。看板のフレームが残っている。

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■交通安全地蔵尊。背後に焼け跡が広がる。

 道路に投げ出された荷物からはさくら新道の人々の生活の一端がうかがえた。誂えた着物、幼児用の本、扇風機やテレビなどの電化製品、カラオケ本、アルバム…。現場には地元民らしき人々が時折訪れては目の前に広がる光景に驚き、帰っていった。
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■現場に残された物品。

<さくら新道の今後>
 夜になるのを待ってもう一度さくら新道を訪れた。2軒だけ残っている店が営業してはいまいか。「まちこ」も「みよし」にも明かりが灯っていた。新道の入口側から電気や水道が引かれていたのだろう、2棟が焼け落ちてもこの棟の営業には支障はなかったようだ。
 店に入って話を聞いた。火災発生当時、小料理みよしの店主は店におり、火災を知りあわてて逃げたという。スナックまちこの店主は地区外の自宅におり、家族からの連絡で火災を知った。消火に時間がかかったのは、駅の反対側の柳小路から消火用水を引いてこなければならなかったからだという。本当だとすれば、さくら新道ができた当初の「はずれくじ」がここでも尾をひいていたことになる。重体になった女性は2階から飛び降りたのだという。
 さくら新道の土地は都有地、そこに借地権を設定してこの長屋が建てられたのだという。今でも都には地代を払っている。以前からさくら新道には都から立ち退きの話があり、10年ほど前に一度決裂した経緯があるという。都はこの土地を飛鳥山公園の一部として使用したいということらしい。
 借地して建てた建物は、地主の承諾なしには建て替えられない。立ち退きを求めていた以上都が再築を許すとは思えない。消失した2棟が今後建て替わることはないのだろう。残された1棟の今後も危うい。都内の交通に大きな影響を与えた今回の火災を都は重視し、ますます立ち退きを強く求めてくるのではないか。店主たちもそう語っていた。
 築後約60年、王子の一角に奇妙な魅力を添えてきたさくら新道。残された1棟の建物が今後いつまで存続できるのか。今後も気にかけていきたい。【吉】

関連記事:

「さくら新道(1)」
「さくら新道(3):さくら新道の終焉」

 

<参考資料>
「東京人」2000.10 都市出版
「散歩の達人」2007.4 交通新聞社
「王子」1930 大日本帝国陸地測量部
「東京戦災白地図 王子」1946 戦災復興院
住宅地図「北区」1972 公共施設地図航空
住宅地区「北区」1985 ゼンリン
住宅地区「北区」1995 ゼンリン
住宅地区「北区」2005 ゼンリン
住宅地区「北区」2011 ゼンリン
「ヤミ市模型の調査と展示」1994.10 東京都江戸東京博物館
朝日新聞
毎日新聞</font size>

2011.05.22

田端大橋・だるまや食堂

 JR山手線田端駅北口側に、新田端大橋と歩行者専用の田端ふれあい橋という2つの橋が架かっている。田端ふれあい橋は昭和62年(1987)に新田端大橋が架設されるまでは車両交通も担う現役の橋だった。
 田端大橋は昭和10年(1935)竣工、「TEAM GREEN 東田端地区の歴史」によれば、それに先んじて田端大橋に続く切り通しが昭和8年(1933)に完成し、田端駅周辺の交通環境は切り通しと田端大橋で大幅に改善したものと思われる。
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■田端大橋西側の切り通しと東台橋(2011年撮影)

 この田端大橋は歩道の途中から下へ降りる階段がついていたが、階段はトンネル状になった建物をくぐる構造になっており、そこに「だるまや食堂」という食堂があった。橋の上にある食堂とその中をくぐって降りる階段はかなり奇妙な光景だった。
 田端大橋の歩行者専用橋への改装とともに、昭和64年(1989)、だるまやはここからは無くなったが、その後橋の下に移転して営業を継続中である。

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■橋の上のだるまや食堂。真ん中の空間をくぐって橋の下に降りる階段がついていた(1983年撮影)

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■だるまや食堂から延びる階段(1983年撮影)

 「立喰そば かしやま(だるまや食堂)」のサイトによれば、この食堂が創業したのは昭和43年(1968)。だるまや食堂の看板の下にうっすら「大洋不動産」という字が見えることから、その前は不動産屋があったのだろうか。また田端駅側に「食堂」というネオンがついているが、これはいつ頃までついていたのだろうか。また看板は「だるまや支店」となっているが、本店がほかにあったのか、今後も継続して調べていきたいと思っている。【吉】

<2011.6.4追記>
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 移転先のお店の方にお話を伺うことができた。建物自体はだるまやの開業以前からあり、以前は不動産屋など複数の店舗が入っていたという。そのためだるまやには入口が3か所あった。看板が「だるまや支店」となっているのは、やはり別に本店があったからとのこと。
 お店にはこの建物の写真が掲載されている春日昌昭・佐藤嘉尚「40年前の東京」が置いてあり、新聞に載った記事とともに見ることができる。やはり当時を懐かしんで来店する客が多いということだ。
 建物についていた緑色のネオンにちなんで、新しい建物にも「食堂」というネオンが設置されていた。【吉】

 


より大きな地図で 田端大橋・だるまや食堂 を表示

 

<関係図書>
冨田均「東京私生活」作品社
「東京の産業遺産-23区-」アグネ技術センター
春日昌昭・佐藤嘉尚「40年前の東京」生活情報センター

 

<参考サイト>
立喰そば かしやま(だるまや食堂)TEAM GREEN 東田端地区の歴史

2011.05.14

王子バラック(王子スラム)

※2025.6.14 「映像の中にみる王子スラム」を追加しました。 テレビドラマ「特別機動捜査隊」の中で王子スラムをロケ地にした作品をみつけたのでその紹介です。

 1980年代半ば頃まで、北区岸町の十条台小学校の南側の谷、南橋の下に、あたかも終戦直後で時間が止まってしまったかのようなバラックが密集している地帯があった。この谷は東に延び南北に延びる崖線を横切ると一転してカマボコ状の堤になり、区道をトンネルでまたいだ後京浜東北線・東北線等の線路敷まで続き、堤はさらに京浜東北線の反対側から区立王子中学校付近まで続いていた。

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◆1981年ゼンリン住宅地図 (着色部分が問題の箇所)  

 戦時中の地形図で調べたところ、これは当時陸軍第一造兵厰(現自衛隊十条駐屯地)まで続いていた引込線の跡地であることが解った。そこにある20件ほどのバラックに住む人々は、終戦直後に都によって石神井川沿いから移住させられた在日韓国朝鮮人たちだったという(元北区議八百川孝氏のサイトによる:サイトは消滅)。なおこの廃線敷にはその後都道455号線が建設されたため、このバラック群は現存していない。ここに住んでいた人々は何処へいったのだろうか。
 現在都道の高架下には「ちんちん山児童遊園」(北区観光ホームページ)が整備され、その一画にかつて区道をまたいでいたトンネルの石造アーチが保存されている。この「ちんちん山」は当時の地元での呼称で、「北区観光ホームページ」によれば引込線を走っていた軍用列車がチンチンと鐘を鳴らしたことが由来だという。
 中上健次原作、柳町光男監督の映画「十九歳の地図」にこの場所が写っている。またテレビドラマ「特別機動捜査隊」第193話「罪と罰」にもこの場所がふんだんに使われている。

 なおこの場所に住む人々の生活が「スラム」(貧民窟)と呼ぶべきものだったかどうか伺い知れなかったため、少なくとも外見上判断が可能な粗末な家屋を表す「バラック」と呼び替えているが、冨田均や西井一夫の著作などをはじめとして一般的には「王子スラム」と呼ばれていた。

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【1】王子バラック(西側)全景。上方に見えるのは建設中の東北新幹線。区立十条台小学校より。(以下写真は1982年頃撮影)

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【2】区立十条台小学校横、南橋上より。木造平屋、トタン葺の家屋。鉄・紙買い入れの看板が見える。

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【3】駐屯地側の入口。銅鉄買い入れの看板。奥に見えるのは南橋。いぬがいる。

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【4】入口から奥へ進む。南橋下。

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【5】家屋が切れた先には築堤が続く。ねこがいる。

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【6】堤の上は子供の遊び場となっている。トラックや回収された鉄くず。右側に堤に隣接する家々の屋根が見えており、小高くなっていることがわかる。

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【7】堤の上から南橋方向を振り返る。右上は区立十条台小学校。

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【8】さらに進んで南橋方向を振り返る。子供に「写真撮って!」と言われた。撮らなかったけど。

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【9】堤の下を区道が横切るトンネル。この石のアーチがちんちん山児童遊園に保存されている。

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【10】堤(東側)の京浜東北線側。

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【11】堤の上に上る。

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【12】堤の先は区立王子小学校付近で一般道につながる。

<参考図書>
飯田則夫「TOKYO軍事遺跡」交通新聞社
宮脇俊三「鉄道廃線跡を歩くⅡ」日本交通公社
金子六郎「東京の産業遺産ー23区ー」アグネ技術センター
西井一夫「昭和二十年東京地図」ちくま文庫
冨田均「東京私生活」作品社

(2000.10.11作成、2011.5.14、2025.6.9追記)