■新宿区

2025.04.14

戸塚暗渠の水路と清水川の位置

「高田馬場2丁目 謎のトンネル(戸塚暗渠)」で、戸塚暗渠を流れていた水路は「清水川の下流であると思われる」と述べたが、文中で軽く触れただけであったので改めて地図上で根拠を示したいと思う。

 

使用した資料

清水川はかなり小さな川であったようで、日本帝國陸地測量部の旧1万地形図(明治44(1911)年〜昭和2(1927)年)には記載されていない。その概略の流路は逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)で知ることができる。また林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期、以下旧地籍図という)には土地の地番とあわせ水路が「河溝」として示してあり、より正確な場所を知る手がかりとなりそうである。

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■逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)には清水川が表記されている

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■林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年、大正末期〜昭和初期) 当時の水路が着色されている

 

清水川の位置の特定方法

今回はこれら旧地籍図の水路を現在の地籍図と重ねることで清水川の位置の特定を試みた。ただし旧地籍図は地図としての正確さに劣り現在の地図と重ね合わせることはできないので、以下のような手順をとった。

①旧地籍図上で水色に着色された「河溝」(水路)およびその周囲の土地の地番を把握する。

②現在(令和6(2024)年)の地籍図上で①で把握した地番に対応する土地を特定し、それとの位置関係や形状から「河溝」に対応する土地を旧河道として割り出す。

なお土地の地番は分筆(土地の分割)や合筆(土地の併合)により変わることや、現在の地籍図と地図を重ねる際に参考にしたブルーマップ(地籍図と地図の重ね図)が必ずしも正確でないことなどにより、特定した旧河道には若干の誤差があると思われる。

 

位置の特定の実際

以下に実際の作業図を用いながら作業の詳細を解説する。

①旧地籍図の「河溝」(水路)とそれに隣接する地番の把握

林工務所調整「戸塚町大字戸塚地籍図」(大正4(1915)年)をもとに河溝部分および水路の可能性が高い無地番地を着色、河溝に隣接する地番とその範囲を記入した。

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■旧地籍図 土地の境界、地番や地目が記入してある

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■河溝の着色 河溝(水路)の部分を着色。地番のない土地も水路の可能性があるので着色する。

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■隣接する地番の把握 水路に隣接する土地の境界と地番を記入。地番84-85と83-86の間に水路がある。

 

②現地籍図上での地番の把握

①で把握した地番に対応する土地の範囲と地番を記入した。

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■現地籍図 令和6(2024)年現在の土地の境界・地番

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■土地・地番の記入 旧地籍図で水路に隣接していた土地の地番・境界を記入。分筆・合筆で土地の形は変わっている箇所もある。

③旧河道の把握

②の地番との位置関係、土地の形状から旧地籍図の河溝(旧河道)の位置を把握、着色した。

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■旧河道の着色 旧地籍図で水路であった地番84-86と83-86の境界付近で水路の形状に似た土地を旧河道と推定した。

 

結 果

上記の作業の結果旧河道として特定したのが下図の赤い箇所である。合筆などにより水路であった土地が周囲の土地と一体となり、正確な位置がわからない箇所については点線で表現した。多少のずれは否めないが、清水川の大まかな位置を特定でき、戸塚暗渠の水路が清水川から連続していることが確認できた。

清水川はほぼ現在の鉄道施設内を流れていたが、戸山口がある第二戸塚ガード付近より上流は鉄道施設の西側の道沿いに流れていたようである。

なお実際の河道は南側の都道を越えた戸山側から流入し、下流はさらに西の方へ流れていたが、戸山は官有地であったことから旧地籍図で詳細は把握できず、北側は戸塚暗渠と無関係なので省略した。

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■旧河道の位置 

 

課題:清水川とはどこからどこまでなのか

今回清水川の旧河道を調べるうち、そもそも清水川とはどこからどこまでなのかという問題につきあたった。

逓信協会作成の地図「東京府北豊島郡高田村、豊多摩郡戸塚村」(明治44(1911)年)では清水川は高田馬場駅の北で東西に分かれ、東側はまもなく神田川に合流するが(ルート①)、西側は神田川に接したり離れたりしながら延々と小滝橋付近まで流れている(ルート②)。

一方戸塚町誌刊行会「戸塚町誌」昭和6(1931)年には「細流素々として戸山より落ち、大字戸塚地内を南北に流れて山手線ガード下にて神田上水に入る。」という地図にないルート(ルート③)について記載してある。

ルート①、ルート②を流れていた川に、ある時点(昭和初期?)でショートカットして神田川に流すルート③がつくられたのだろうか。

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■逓信協会地図の河道と戸塚町誌の河道

現在ルート②とルート③とほぼ同じルートを下水道の戸塚西幹線とそこから分岐した雨水管が通っている。ルート③は戸塚町誌に記載のある清水川が暗渠化されたものと考えてよいだろうが、ルート③を離れ延々1kmにわたって小滝橋まで流れていたルート②ははたして清水川の下流と呼んでよいのか。西戸塚幹線は清水川の暗渠化された姿と考えてよいのか。

この点が曖昧なまま残された課題である。【吉】

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■現在の下水道西戸塚幹線と分岐した雨水管

<追 記(2025.5.5)>

本田創さんの指摘によれば、2の水路は神田川小滝橋付近に堰をつくって分水した灌漑用の水路(あげ堀)とのこと。

 

 

 

2025.03.10

高田馬場2丁目 謎のトンネル(戸塚暗渠)

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 謎のトンネルの発見、わき起こる疑問 

先日高田馬場でふと西武新宿線のわきの道路を歩いてみる気になった。映画「警視庁物語 遺留品なし」(1959)でこの道の奥にあるダンス教室で話を聞くシーンがある。今どんな雰囲気になっているか気になったのだ。進行方向右手は稲門ビルという大きなビル。左手は西武新宿線の擁壁に貼りつくように小さな店が建ち並ぶ。

 そして立ち並んだ一番奥の店、その陰に隠れるように小さなトンネルがあるのを発見した。

 入口は半分以上店の建物で隠れ、開口部はネットフェンスと鉄骨で塞いである。中を覗くと店の建物が中まで続き、エアコンの室外機が置いてあった。

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■店の陰のトンネル

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■トンネル内部

 

 ここで線路の反対側を確認したくなった。はたして反対側までトンネルが続いているのだろうか。

 一旦早稲田通りまで戻り、西武線のガードをくぐり、タックイレブンビルと山手線の間の道を入る。この場所、高田馬場2-19一帯は西武線と山手線の間に挟まれ、奥は神田川で行き止まりになった袋小路状の場所だ。

 袋小路を奥にはいると、少しわかりにくい場所だったが反対側のトンネルを発見したコンクリートの擁壁の下、まわりより少し低くなった場所に、反対側と同じ形のトンネルが空いていた。やはりネットフェンスと鉄骨で塞いであり、中には店舗用とみられる椅子や什器が乱雑に置かれていた。奥には反対側の開口部が見えている。

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■反対側の開口部

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■トンネル内部

 

 このトンネルについてツイートしたところ情報が寄せられた。高田馬場FIビル2階のエレベーターホールに高田馬場の昔の絵地図がパネルにしてあり、そこにトンネルに関する記載があるというのだ。

 さっそく現場に行ってみた。

 「記憶の家並みと商店街 1935年代の高田馬場1〜2丁目」と題した、幅3mにもわたるパネルにびっしり描き込まれたこの絵地図は、地元で育った濱田熙氏が昔のスケッチや同級生の記憶などをもとに1990年から2001年にかけて作成したものだ。

 その一端、問題のトンネルに相当するあたりに「高さ2.5メートル位の小さなトンネル」と書いた吹き出しが書いてあるではないか。

 それではあのトンネルは通路だったのだろうか。ではなぜ今塞がれているのか。道が閉鎖されるなどということがあるのだろうか。

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■記憶の家並みと商店街

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■トンネルに関する記述

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■トンネルの位置

 

 いきなり結論 

 以下この疑問を解くべく収集した様々な資料、およびそれによってわかった事実について書いていくが、長くなるのでまず結論から書いていこう。


・このトンネルは「戸塚暗渠」。

・もともとこの場所に神田川に流れ込む水路
 (清水川の下流と思われる)があったが、
 1927年西武新宿線)を建設する際
   水路を暗渠(地下水路)化しトンネルをつくり通した。

所有者は西武鉄道(元土手の部分)と新宿区(元水路の部分)。

・閉鎖の経緯は解明できなかった。 

 調査の過程に興味がある方はここから先を読み進めてほしい。

 

 登記簿:トンネルの所有者は西武鉄道+α 

 まず所有者を知るため法務局地図で地番を調べ、土地の登記簿を取得した。トンネル内を2本の細い土地が貫いている。一方の地番は高田馬場2-24-6、西武新宿線と同じ西武鉄道の所有。もう一方は地番のない「長挟物(ちょうきょうぶつ)不明」、すなわち道や水路で境界が不確定な土地だ。登記簿がないためこの土地の所有者はこの時点ではわからなかった。

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■法務局地図

 

 道路台帳:道路法上の道路ではない/もうひとりの所有者は新宿区 

 一方新宿区の道路台帳を調べると、トンネルが幅0.91mの道として記載されていた。道路台帳に掲載されているということは、やはり道路なのだろうか?

 この点を確認するため新宿区道路課にヒアリングをした。その結果道路台帳には記載されているが法令上の「道路」にはあたらず新宿区所有の「特定公共物」(道路法が適用されない道や河川法が適用されない水路)だという回答であった。

 つまり道路ではないこと、法務局地図で「長挟物不明」と表示されている部分は新宿区の所有であることが判明した。

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■道路台帳

 

 地籍図:もとは水路と土手 

 大正4(1915)年の「東京府豊多摩郡戸塚町大字戸塚地籍図」を確認した。地番2-24-6は記載がなかったが、のちにその一部が分かれて(分筆されて)2-24-6となる地番2-24-4が確認できた。灰色に着彩されており、凡例によれば「土揚敷」(いわゆる土手)であったことがわかった。そしてそれに沿って神田川にそそぐ水路が確認できた。

 つまりこのトンネルのうち西武鉄道所有の地番2-24-6はもと土手であり、新宿区所有の土地はもと水路であったのだ。


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■地籍図

 

 市街図:神田川に流れ込む水路(清水川か)が流れていた 

 広域的に確認するため明治44(1911)年の「戸塚町市街図」を確認した。地番24と番号のついた土地はやはり水路沿いにあった。かつては山手線付近から流れてきた水路がこの一帯をよこぎり神田川にそそいでいたことがうかがえる(地籍図で確認したところ、この水路は清水川と無地番の土地でつながっていることから、清水川の下流であると思われる。なお現在清水川は山手線の西側を流れていることから、ある時点で改修されたものと考えられるが、この点は未確認)。

 昭和2(1927)年ここに水路をよこぎるように西武新宿線が建設される。その際に、水路の機能を残すためにトンネルを通したことは十分考えられるのではないか。

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■市街図

 

 西武鉄道からの情報:施設の名称は「戸塚暗渠」 

 だめもとで所有者のひとりである西武鉄道にメールで問い合わせしたところ、回答をいただいた。トンネルが閉鎖された経緯はわからないが、トンネルの名称は「戸塚暗渠(とつかあんきょ)」であるという情報をいただいた。名称が「暗渠」(地下に埋められた水路)ということは、やはりトンネルの下にはかつて流れていた水路が通っているのだ。

 「戸塚暗渠」で文献を探したところ、「西武鉄道村山線の工事概要」(工事画報社「土木建築工事画報」昭和3年10月号)という雑誌記事が見つかった。西武新宿線の前身西武鉄道村山線について、西武鉄道の当時の社長岡野昇氏が完成直後に書いた記事である。西武鉄道村山線は昭和2(1927)年4月16日に山手線外側に高田馬場仮駅を設置し営業を開始していたが、省線(現JR)高田馬場駅に連絡させる工事は昭和3(1928)年4月14日まで続いた。その際に戸塚暗渠がつくられたというのだ。そこには「戸塚暗渠は径間十フィートの拱渠にして全部コンクリート構造とす」とあった。「拱渠(こうきょ)」とはアーチ状にして水路を通す構造物のことで、径間はおおむねトンネルの幅、10フィートは3.048mだ。12_20250309122301
■「西武鉄道村山線の工事概要」(工事画報社「土木建築工事画報」昭和3年10月号)

 

 下水道台帳:下水道の存在は確認できず 

 トンネルの下に水路が通っていることを確認できないかと思い、下水道台帳を確認したが、記載はなかった。東京都の下水道局によれば下水道台帳に載っているのは公共下水道のみであって、私有地内などの排水管については把握していないということだった。

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■下水道台帳

 

 新宿区道路課と西武鉄道:閉鎖の経緯は不明 

 閉鎖の経緯について、前述のように西武鉄道から情報は得られなかった。一方新宿区道路課のヒアリングでは、安全上の問題など何らかの問題があった場合、西武鉄道と新宿区が協議の上閉鎖することはありうるという回答だった。

 

 以下推測:閉鎖の経緯 

 水路がある地区に鉄道をつくるため水路を通すトンネルがつくられ、水路自体は暗渠化した。とすれば地上部は通行に使われていたのではないか。絵地図にあった「小さなトンネル」という表現も当時通行できたことを示しているように感じられる。

 しかし通路として必要性のあるルートではないことからあまり利用されず、通行者の安全性への懸念などもあり、西武鉄道と新宿区が協議の上閉鎖したのではないかと推測する。

 

 このトンネルを改装し、飲食店として活用することを妄想した。客が数人しか入れない飲み屋を開き、夜は赤い光で照らしたい。トンネルのある一帯も怪しげだが、それ以上に秘密めいた、魅力的な空間になるのではないか。【吉】

 

2020.04.14

赤城下町・矢来町:地形が隔てた背中合わせの町

【2つの町を隔てる段差】
 早稲田通りを進み神楽坂を上る。上りきった北側に赤城神社がある。北側に1本道を入ったあたりまでが矢来町、そこからさらに1本道を入ると赤城下町で、2つの町はこの2本の道の中間で接している。
 付近の地形をみると、2つの町が接する線ですっぱりと6mほどの段差がある。そのため矢来町の道と赤城下町の道を繋ぐ道はなく、矢来町側から入った道は途切れ、赤城下町側から入った道は擁壁につきあたり、この2つの道は繋がることなく平行に300mほど伸びている。
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■赤城下町と矢来町の位置関係、地形、道路網(「東京地形図 on the Google Earth」gridscapes.netをもとに作成)
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■擁壁につきあたる赤城下町側から入った道

【2つの抜け道① 区立あかぎ児童遊園】
 2つの道は繋がっていないというのは公道の話で、実は2か所抜け道がある。その一つが区立あかぎ児童遊園だ。
 あかぎ児童遊園は南北に延び、矢来町の道、赤城下町の道それぞれから延びてきた道を園内にある階段でつないでいる。また園内の南北の段差を利用して象の形のすべり台が設置されている。この造形がなかなか趣深い。
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■園内の階段

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■象のすべり台

【2つの抜け道② サクラハウス横】
 矢来町の道沿いにかつて見晴湯という銭湯があった。現在ではサクラハウスという外国人向けシェアハウスになっているが、この駐車場を奥に進むと下におりる階段がある。階段横の壁面には消えかかった「パーマ ■美の店 ここおりる」というペンキの文字が。矢印にしたがって階段を下りると鉄扉を通り抜け赤城下町側から延びてきた道に出ることができる。出たあたりに空地があり、ここが以前パーマ屋だったのだろう。
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■見晴湯の煙突(2012年当時)。現存しない。

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■サクラハウス横の駐車場。この奥に…

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■下に下りる階段。壁に何か書いてある。

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■「パーマ ■美の店 ここおりる」と判読できる

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■階段を下りると鉄扉が

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■鉄扉を出たあたりの空地から出てきたあたりを見る。この空地がおそらくパーマ屋。

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■赤城下町側から延びてきた道に出る

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■赤城下町の道から振り返る。見晴湯の煙突。

 400年前わずかな地形の段差が背中合わせの町をつくりだし、その構造が現在に至るまで引き継がれている。現在では家並みに埋もれている微地形だが、それは確実に道筋や町割に反映されているのだ。【吉】

2019.08.18

市谷左内町:遺跡風構造物

 市谷左内町は外堀に向かって開けた谷の南側斜面に位置している。そのため地区内には擁壁も多いが、この物件はそうした擁壁の一つの下に位置している。

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■周辺の地形と市谷左内町、物件の位置
(「東京地形図 on the Google Earth」gridscapes.netをもとに作成)

 高さ6mほどの擁壁の下部前面に高さ1.5m、奥行き4m、幅20mの段状の部分があり、全てコンクリートで固められている。中央には段上に上れる階段があり、また引き戸の溝のようなもの、コンクリートの用水槽をそのまま埋めたようなもの、その他多くの凹凸がある。マヤかアステカの遺跡のようにも見える。

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■正面から。中央の階段。

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■横方向から

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■用水槽を埋めたようなもの

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■引き戸の溝のようなもの

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■段上の様子

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■背後の擁壁の上から

 おそらくはかつて一段高くなっていた土地を建物の敷地として使っていたものを、がけ崩れ防止などの目的でコンクリートで固めたものだろうが、用水槽の埋め方や一部飛び出したような階段があることからみて、いろいろなものを中に残したままその上から荒っぽくコンクリートで固めたように見える。

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■全体図

 元々がどんな状態であったのか、1960年の住宅地図にまで遡ってみたが、この部分にはガケの記号が記してあるのみで何か建物があったことは確認できなかった。物置小屋のようなものがあっただけかもしれない。
 前面は現在では大部分が駐車場になっているが、一軒残った民家が二階の物干し台からここに出られるようになっていることから、同様に前面に建っていた民家の二階からここに出られるようになっていたのかもしれない。

1970s
■住宅地図(1970年)
公共施設地図航空株式会社 編(1970)『全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳 新宿区 1970年度版』渋谷逸雄.

2019.06.16

四谷荒木町(2):1972年当時の料亭の分布

「四谷荒木町(1):窪地の地形が生んだ坂とバーの街」で、次のような内容を書いた。

 ただ荒木町が惜しいのは、駅と飲食店街と坂・池の位置関係があまり良くない点だ。池のあたりの低い場所にも飲食店があれば、坂を下って飲みにいく、池を見ながら食事するといったアクティビティが発生するだろう。現状では駅から池を見ず、坂を通らずとも飲食店街までたどり着けてしまう。荒木町で飲みながら策の池の存在にも気づいていない者もあるのではないか。

 この点過去はどのような状況だったか。1983年三業組合(料亭・待合・芸妓屋の組合)が解散する前の住宅地図(1972年当時)から、明確に「料亭」「旅館」と表記してあるものを地図上にプロットしてみた。現在の区立荒木公園の位置には三業組合の事務所が残っており、現在飲食店が集積する柳新町通り、車力門通り以外にも、明治期の策の池の周囲に料亭が分布しているのがわかる。2019年現在1の橘家は現存、9の雪むらは建物が残っている。
 かつて一体であった坂・池という地形と飲食店街が分離してしまったのは80年以降、料亭が閉鎖し宅地化していった結果だったのだ。2_4
公共施設地図航空 編「全航空住宅地図 新宿区」昭和48年度版 をもとに作成

 なおこれ以前の状況を知ろうと住宅協会「東京都全住宅案内図帳 新宿区東部」1962にあたったが、料亭などの表記がなく確定できなかった。また1948年頃の火災保険特殊地図を探したが、荒木町付近のものは見つけられなかった。

2019.05.13

四谷荒木町(1):窪地の地形が生んだ坂とバーの街

【荒木町の概要】
 荒木町一帯は美濃国高須藩藩主松平義行の屋敷があった場所であり、屋敷内には「津の守の滝」のある「策(むち)の池」があった。
 明治時代には屋敷内の池や庭園が一般に開放され、荒木町は策の池を中心とした景勝地となり、付近には花街が発展した。津の守花柳界は昭和3年には芸妓屋が83件、芸妓も226名にのぼり、その後衰退をしたが現在の区立荒木公園あたりには見番(料亭・待合・芸妓屋の組合である三業組合の事務所)が昭和58年まで残っていたという。(四谷地区協議会 観光まちづくり実行委員会「四谷まち歩き手帖3下巻 甲州街道」より)

【四方を囲まれた窪地】
 荒木町は北を靖国通り、西を外苑東通り、南を新宿通り、東を津の守坂(つのかみさか)通りに囲まれている。中央の最も低い部分は標高約20mで、西、南、東を標高約30mの地形で囲まれた地形だ。また自然な地形か人工的に谷を堰き止めたものか、北側も標高が30m近くあるため、四方を囲まれた窪地となっている。

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(「東京地形図 on the Google Earth」gridscapes.netをもとに作成)

【津の守の滝、策の池】
 このような地形のため、津の守の滝が水源となりこの地に策の池が成立した。「五千分一東京図測量原図」(明治16〜17年頃)には130×40mほどの細長い池と直径40mほどの丸い池の2つの池が記載されている。池の周囲は樹木に覆われた斜面となっている。
 現在策の池は縮小し、津の守弁財天の中に8m四方ほどの池として残されている。「五千分一東京図測量原図」で判読できる池の範囲からは外れているが、より水源である津の守の滝に近い場所に残ったのだろう。
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(参謀本部陸軍部測量局 「五千分一東京図測量原図」をもとに作成)

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■現在の策の池と津の守弁財天

【策の池の周囲に形成された坂と階段の街】
 池が宅地化した結果、既存の市街地と池の底を結ぶ坂が形成された。荒木町の階段状の坂の位置と明治期の策の池の位置を重ね合わせると、みごとに池の周囲の斜面だった部分が現在の階段の位置と一致することがわかる。荒木町の階段坂の上の場所からは、かつては樹林越しに眼下に広い水面が広がっていたことだろう。
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■策の池と階段坂の位置関係

2
■階段坂の上からの眺望。かつては樹木越しに水面が広がっていたことだろう。

1
■階段坂① 策の池北端に位置する

2_1
■階段坂② 策の池東端に位置する。中腹から左に小道が延び階段坂⑦へと続く。

3  
■階段坂③ 策の池南端に位置する緩やかな折れ曲がり坂

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■階段坂④ 策の池西端に位置する石畳の折れ曲がり坂

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■階段坂④下部

5
■階段坂⑤ 策の池西端に位置する擁壁沿いの階段。

6
■階段坂⑥

7
■階段坂⑦ 策の池東側を等高線と並行して延びる小道の端部に位置する。

【花街の名残】
 かつて発展した花街の名残であろう、池の東側、南側にあたる柳新町通り、車力門通り沿いには今でもバー・スナック、居酒屋を中心とした飲食店が集中している。また表札に「常磐津駒太夫」と掲げた家があったり、策の池に面した位置に料亭「千葉」が残っていたりと、三業組合が解散して30年以上経った今も花街の痕跡を残している。また随所に残る石畳も往時を偲ぶよすがとなるだろう。
 ただ荒木町が惜しいのは、駅と飲食店街と坂・池の位置関係があまり良くない点だ。池のあたりの低い場所にも飲食店があれば、坂を下って飲みにいく、池を見ながら食事するといったアクティビティが発生するだろう。現状では駅から池を見ず、坂を通らずとも飲食店街までたどり着けてしまう。荒木町で飲みながら策の池の存在にも気づいていない者もあるのではないか。

「四谷荒木町(2):1972年当時の料亭の分布」

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(「荒木町マップ」(荒木町商店会公式ウェブサイト)より作成)
■荒木町商店会の飲食店の分布

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■車力門通り沿いの飲食店街

2_2
■路地に密集する飲食店

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■料亭「千葉」

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■石畳が残る道

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■路地の石畳

 

2012.03.25

若松町謎の私道

<塔博士の記念館>
 新宿区若松町に「早稲田大学内藤多仲博士記念館」という建物がある。内藤多仲(1886〜1970)は構造設計を専門とする建築家で、歌舞伎座などの建物のほか名古屋テレビ塔、通天閣、東京タワーの構造設計に携わり、「耐震建築の父」「塔博士」と異名をとる人物。記念館は博士の自邸が没後早稲田大学に譲られ整備されたものだ。

 

P3166609s ■早稲田大学内藤多仲博士記念館

 

 問題の道はこの内藤多仲記念館の前にある。大江戸線若松河田駅から記念館に向かうと、大願寺の手前に大きな門構があり「N」と個人の表札が出ている。門柱の横には「私道に付き駐車お断り申し上げます 歩行者の方の通行は可能です 地主」という表示がでている。記念館に行くにはこの個人宅の門をくぐって私道を進まなければならない。
P3166618s ■N氏邸の門構

 

<大邸宅と大型犬>
道は中央に石が敷かれており、その両側は車の通行のためだろうか舗装がされている。幅約5〜6m、長さ約100m。奥に木が鬱蒼と繁る一角があるが、ここが門柱の表札にあるN氏の邸宅だ。つまりこの道はN氏邸への長い長いアプローチ路なのだ。
P3166614s ■門の方向を振り返る
P3166624s ■奥をみる。右手の建物は内藤多仲記念館の一部。

 

 N氏邸の敷地は広く、建物は隣接する内藤多仲記念館と同時期の大正末期から昭和初期にかけて建てられたもののように見える大きな邸宅だ。高い鉄門扉の外から伺うと廃車然とした車が置いてあり人の気配も感じられなかったが、建物の陰から黒い大型犬が出てきて吠えかかられたのでどなたかお住まいなのだろう。よい番犬だ。
 道はこの奥で曲がり余丁町小学校前の道につながり、通り抜けられるようになっている。
P3166594s ■N氏邸前
P3166588s ■余丁町小学校側の出口

 

<2つの謎>
 この道について現場で感じた違和感を整理すると、2つに整理できる。
 一つは私有地を自由に通らせるというN氏の懐の深さと、N氏邸から感じられる近付き難い閉鎖感とのギャップ。そしてもう一つはこの道のアプローチ路としての異様な長さ。N氏邸の敷地から余丁町小学校側へはすぐ出られるのに、なぜわざわざ長いアプローチをつけて大願寺側へ出ようとするのか。奥まった敷地から道路へ私道で繋がっているような敷地を「旗竿地」と呼ぶ。建物が建っている部分を旗、私道を旗竿に見立てた呼び名だが、N氏邸は竿の部分が異様に長い旗竿地だ。なぜこんな敷地の形ができたのか。
Photo ■位置関係。極端な旗竿地。

 

<敷地の変遷>
 まず二つ目の疑問、長大な旗竿地ができた経緯について次のような仮説を考えてみた。もともとは内藤多仲記念館、大願寺もN氏の土地で、現在の表札がかかる門がその入口だったのではないか。内藤多仲記念館、大願寺へ土地が切り売りされていく過程で(内藤多仲邸の建設は1925年、大願寺の建立は1972年)、N氏がもとの入口にこだわった結果として、現在のような長いアプローチ路が残ったのではないか。
 そこで過去の地図を調べることにした。幕末の1849年から1978年までの地図にあたった。
 昭和12年(1937)にはすでに問題の道路ができており、N氏、内藤多仲の名前も見える。それ以前の地図では道が途中まで表示されていたり、全く表示されていなかったりと様々で、結論からいうと仮説のような経緯は確認できなかった。内藤多仲記念館、大願寺の土地がN氏所有の借地という可能性も考え登記も調べたが、それぞれ早稲田大学、大願寺の所有となっていた。
■敷地の変遷

尾張屋版 江戸切絵図
嘉永2年(1849)〜
道の表現なし。N氏邸、内藤多仲記念館、大願寺一帯は武家地。
「中根三八」「池尾友三郎」「細井小次郎」「横井■次郎」の表記あり。
参謀本部陸軍部測量局 迅速図
明治16年(1883)
現在の本田多仲記念館のあたりまで道の表現あり。
内藤多仲記念館の位置に建物、大願寺の位置は林。N邸の位置は空白。
一帯は明治政府の「桑茶政策」のためか主に桑畑になっている。
「東京市十五区番地界入地図」
東京郵便局・東京逓信管理局
明治40年(1907)
道の表現なし
「火災保険特殊地図旧35区」
都市製図社
昭和12年(1937)
道路あり。N氏邸の位置に建物、N氏の姓が記載されている。
内藤多仲記念館の位置に「内藤多仲」の名。
大願寺の位置に「奥保城・奥保夫」の名。
「東京区分詳細図」
日本統制地図株式会社
昭和16年(1941)
道の表現なし
「新宿区全図」
公共施設地図航空株式会社
昭和45年(1970)
道路あり。N健治・小笠原忠幸、内藤多仲の名。
大願寺の位置に「山田三郎太」の名。
「新宿区」
日本住宅地図出版株式会社
昭和53年(1978)
道路あり。N健治・小笠原忠幸の名。
内藤多仲邸は「早稲田大学耐震資料館」に。
大願寺が完成している。

 

<小笠原伯爵家との関係>
 しかし敷地の変遷を調べる中で思いがけない手がかりを得た。昭和45年以降にN氏邸に名前がみられる「N健治・小笠原忠幸」の2人である。
 調べてみると、小笠原忠幸氏は小笠原流礼法の三十二代宗家小笠原忠統(ただむね、1919〜1996)氏の兄であり、三十代宗家小笠原長幹(ながよし、1885〜1935)氏の次男だということがわかった。そしてN健治氏は小笠原忠幸氏の夫人、嘉代子氏の父だったのだ。若松河田駅の反対側には長幹氏の邸宅、小笠原伯爵邸がなお現存しレストランとして活用されている。
 つまり、小笠原伯爵の次男が生家から少し離れた土地に家を構え、夫人やその父と住んでいた場所、それがN氏邸なのだ。表札の名前からすると、現在でもN健治氏のご子孫がお住まいなのだろう。
P5194098s ■小笠原伯爵邸

より大きな地図で 謎の私道 を表示

 

<まとめ>
 長いアプローチ路ができた過程は明らかにできなかったが、N氏邸が伯爵家とのつながりがあるいわゆる名家であることが明らかになった。そうしてみると、最初の疑問、自邸を外部から隔絶して守る行為と、名士として地元の利便のために敷地の一部を開放するという行為に、ある程度説明がついたのではないか。
 あらためて門構の外からこの道を眺めると、かつてクラシックな自動車がこの門構をくぐり、長いアプローチ路を進んでいったであろう様子が脳裏に浮ぶのだった。【吉】

 

<参考資料>
内藤多仲博士記念館(旧自邸)見学会とトーク イベントレポート(INAX) 「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」人文社
「角川日本地名大辞典 13 東京都」角川書店
参謀本部陸軍部測量局 迅速図 東京北西部
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」人文社
「古地図・現代図で歩く昭和東京散歩」人文社
「新宿区全図」公共施設地図航空株式会社
「新宿区」日本住宅地図出版株式会社
「昭和新修華族家系大成 上巻」霞会館
小笠原流法ウェブサイト 
小笠原伯爵邸

2005.12.31

市谷薬王寺町の抜け道

 大江戸線牛込柳町駅近く、市谷柳町交差点の裏手にある曲がり角から1本の石段が延びている。その石段は幅2mほどの細い道に続き、住宅の間を50m縫ってやや幅広い道に出る。どちらの入口も奥まった場所にあり目立たず、この界隈に住む人々が抜け道としてしか使わなそうな小道だ。先が見通せない石段がその奥を見てみたいという気持ちを強くかき立てる魅力的な空間だ。(新宿区市谷薬王寺町71)【吉】

P3296724
■曲がり角から奥へ延びる石段

P3296727
■そこを上ると…

P3296730
■様子のいい狭い道に。

P3296733
■大谷石の擁壁で片側が高くなっている。

P3296739
■来た方を振り返る。

 


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