□東京軍都畫報

2019.05.02

市ヶ谷駐屯地地下壕

【1993年12月 自衛隊市ヶ谷駐屯地の見学会】
 2000年5月、防衛庁本庁は現在の東京ミッドタウンの場所から市ヶ谷地区に移転したが、移転工事が着工し間もない1993年12月18日、自衛隊市ヶ谷駐屯地の見学会が行われた。
 この見学会は1937年に建設された1号館や、その内部にある極東国際軍事裁判の法廷となった大講堂を見学できるものだったが、私にとっての一番の関心事はその地下に眠る戦時中に造られた地下壕の見学だった。
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■当時の市ヶ谷駐屯地案内図 1号館は敷地の中央にある。現在は敷地内西側に移設され市ヶ谷記念館となっている。一部の区画で工事が始まっている。
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■1号館外観
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■移転工事のための基準杭

【地下壕の概要】
 この防空壕は、防衛省の説明によれば「詳しい建設目的や使用状況は不明」だが「ポツダム宣言受諾に際し、当時の阿南惟幾陸相が若手将校を集め、『天皇陛下のご聖断が下った』と伝えた場所」ともいわれている。(「大本営地下壕を公開=陸軍大臣執務室跡も 写真特集」時事ドットコムニュース)
 見学時壁面に掲げられていた「地下壕略図」によれば、約50m✕45mの範囲にトンネル状の「室」が南北に3本、東西に2本格子状に延びている。断面図の表記に不詳な点があるが、地下約16mといったところか。「室」の面積は968㎡、「通路」の面積が260㎡であり合計1,228㎡の広さだ。
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■地下壕略図を説明する広報官
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■地下壕略図をサイズを修正し描き起こした図

【通路】
 地下壕は幅1.4m、高さ2.7m。延長37mの通路2本で1号館と結ばれていた。末端には1号館に上る階段があった。また敷地内靖国通り側の地盤が低くなった部分に3箇所の出口が設けられていた。
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■1号館と地下壕を結ぶ通路

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■前方のドアが出口

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■出口を外部から見る

【室】
 幅4.3m高さ4.1mの、格子状に掘られたトンネル状の空間。壁面はコンクリートで固められ、内部を仕切って部屋をつくっていた。見学時は隔壁の跡や配電盤の跡、壁面から突出した鉄筋などが残されていた。
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■「室」の部分

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■阿南陸相の執務室跡、その奥が通信所
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■確か炊事場という説明だった記憶
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■壁面に残る配電盤の跡
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■広報官によれば、この壁面に「人の顔が見える」という噂もあった
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■占領時に壁面に書き加えられた”No Smoking”の文字

【換気設備】
 地下壕内の一画に当時の換気設備が残っている。2本の鉄骨で支えられた円筒状の設備で、見学当時まだ動かすことができた。地上に排気口があるが、上空から判別できないよう、石灯籠でカモフラージュされている。
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■換気設備
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■同上
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■換気設備の排気口をカモフラージュする石灯籠
(2000.11作成、2019.5.2 追記)

2011.05.14

王子バラック

 1980年代半ば頃まで、北区岸町の十条台小学校の南側王子本町の王子第二小学校と中央工学校の間の谷、南橋の下に、あたかも終戦直後で時間が止まってしまったかのようなバラックが密集している地帯があった。この谷は東に延び南北に延びる崖線を横切ると一転してカマボコ状の堤になり、区道をトンネルでまたいだ後京浜東北線まで続き、堤はさらに京浜東北線の反対側から区立王子小学校付近まで続いていた(Googleマップ)。 <参考リンク>
1979年航空写真(国土交通省)   
 戦時中の地形図で調べたところ、これは当時陸軍第一造兵厰(現自衛隊十条駐屯地)まで続いていた引込線の跡地であることが解った。恐らくは戦後のドサクサに家を建て、違法占拠であったため建て替えもままならずバラックのまま残った家々なのだろう。そこにある20件ほどのバラックに住む人々は、終戦直後に都によって石神井川沿いから移住させられた在日韓国朝鮮人たちだったという(下記八百川孝氏サイトによる)。なおこの廃線敷にはその後都道455号線が建設されたため、このバラック群は現存していない。ここに住んでいた人々は何処へいったのだろうか。
 現在都道の高架下には「ちんちん山児童遊園」(北区観光ホームページ)が整備され、その一画にかつて区道をまたいでいたトンネルの石造アーチが保存されている。この「ちんちん山」は当時の地元での呼称で、「北区観光ホームページ」によれば引込線を走っていた軍用列車がチンチンと鐘を鳴らしたことが由来だという。
 未確認だが、冨田均「東京私生活」(作品社)によれば、中上健次原作、柳町光男監督の映画「十九歳の地図」にこの場所がでてくるという。

 

 なおこの場所は冨田均や西井一夫の著作では「王子スラム」とされているが、そこに住む人々の生活が「スラム」(貧民窟)と呼ぶべきものだったかどうか伺い知れなかったため、少なくとも外見上判断が可能な粗末な家屋を表す「バラック」と呼び換えている。

 

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【1】王子バラック(西側)全景。上方に見えるのは建設中の東北新幹線。区立十条台小学校より。(以下写真は1982年頃撮影)

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【2】区立十条台小学校横、南橋上より。木造平屋、トタン葺の家屋。鉄・紙買い入れの看板が見える。

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【3】駐屯地側の入口。銅鉄買い入れの看板。奥に見えるのは南橋。

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【4】入口から奥へ進む。南橋下。

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【5】家屋が切れた先には築堤が続く。

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【6】堤の上は子供の遊び場となっている。トラックや回収された鉄くず。右側に堤に隣接する家々の屋根が見えており、小高くなっていることがわかる。

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【7】堤の上から南橋方向を振り返る。右上は区立十条台小学校。

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【8】さらに進んで南橋方向を振り返る。子供に「写真撮って!」と言われた。撮らなかったけど。

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【9】堤の下を区道が横切るトンネル。この石のアーチがちんちん山児童遊園に保存されている。

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【10】堤(東側)の京浜東北線側。

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【11】堤の上に上る。

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【12】堤の先は区立王子小学校付近で一般道につながる。

<参考図書>
飯田則夫「TOKYO軍事遺跡」交通新聞社
宮脇俊三「鉄道廃線跡を歩くⅡ」日本交通公社
金子六郎「東京の産業遺産ー23区ー」アグネ技術センター
西井一夫「昭和二十年東京地図」ちくま文庫
冨田均「東京私生活」作品社

<関連リンク>
電脳六義園通信所「ちんちん山」
東京バーベキュー ~歩くひと、佇むひと~「南橋大橋、ちんちん山とトンネルの石組み。」
北区・「60年目の風景」(北区議会議員八百川孝氏のサイト)
Good Old Rail「陸軍・東京第一第二造兵廠専用線」

(2000.10.11作成、2011.5.14追記)

2001.05.15

渋谷陸軍用地

 2001年頃まで、渋谷区宇田川町、東急ハンズ本店前という最も繁華な一画に、「陸軍用地」という標識が残されていた。
 神南小学校や渋谷税務署のあたりは陸軍衛戍刑務所であったが、このあたりまで陸軍用地が続いていたのだろうか。渋谷の街頭に兵士の亡霊が立ち、戦後50年経た当時も陸軍用地を守り続けていた。
 同様の標識は都内各所で見ることができる。
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Fh000003

 2001年3月現地へ行ったところ、区の下水道関係の施設の改修に伴い、塀もろとも標識も消失していたことを確認した。
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2001.04.12

渋谷109下「玉久」

 (恋文)横丁のあった道玄坂下にはいまショッピングプラザ109のハーフミラーのビルが建っているが、そのわき腹のところに一軒玉久という木造平屋トタン張りの飲み屋がペッタリとひっついている。断固として立ち退きを拒絶したため、ビルがこの飲み屋分真中でへっこんでしまっている。(西井一夫・平嶋彰彦「昭和二十年東京地図」筑摩書房)

 古い建物である。1950年代の渋谷の火災保険特殊地図にはすでにこの建物が記され「平、ト」とトタン張り平屋の表記がなされている。1979年建設されて以来しばらくの間109は文化村通り側の一部がへこんだ形をしており、その足元に木造トタン張り平屋の玉久があった。

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 その後2001年に玉久が建て替えられ現在の玉久ビルとなり、20年後にして109はようやく左右対称のファサードを得た。
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